カレンダーを見ると、
新暦のカレンダーなのに、
旧暦の日付や、
大安や仏滅など六曜が併記されているものもみかけます。
この旧暦と言われる暦は、
どのようにして作られた暦なのでしょうか。
そして旧暦の暦が新暦に変わったのはいつのことなのでしょうか。
旧暦と新暦、それぞれの暦の違いと、
変更になった理由についてまとめました。
また、
旧暦と新暦の暦で生じる季節のずれはどれくらいなのかも、
合わせてい伝えします。
旧暦と新暦の違いやその理由は何?
太政官布告第337号という法律により、
明治5年11月9日に、正式に改暦が決定・発表され、
わずか二十日後の明治5年12月3日から改暦ということで、
明治6年1月1日の新しい年が始まったのです。
旧暦から新暦になるというこの改暦は突然で、
十分な検討もされないまま施行されました。
ですから、多くの誤りやいろいろな問題を残したままの改暦で、
人々は戸惑い、大慌てしたことは間違いありません。
しかし、
何故そんなにまで急いで改暦をしなければいけなかったのか、
そこには明治新政府の深刻な財政問題があったといわれています。
旧暦のままだと、翌明治6年は“閏年”のため、
閏月が入り、1年が13ヵ月ある年になります。
当時の役人の給与は、それまでの年俸制から月給制に改めたばかりで、
新政府はこのままだと明治6年には、
お役人に給与を13回支払わなければいけなかったのです。
さらには、明治5年11月27日の太政官布達第374号により、
「当十二月ノ分ハ朔日二日別段月給ハ不賜」とあります。
つまり、
『明治5年の12月の分は、1日・2日の2日あるが、別段月給を支給しない』
という、なんとも無茶ぶりで、
12月分の月給不支給が各省に通告されたのです。
今なら間違いなく暴動が起きそうな政府の決定です。
しかし、財政難だった明治新政府は、
このタイミングで太陽暦に改暦することで、
明治6年からの給与の支払いを12回で済ませることが出来たのです。
しかも明治5年分の給与も一か月分少なくて済む、
まさに一石二鳥の改暦で、
政府の財政もずいぶん助かったということなのです。
明治維新となり、近代国家を目指す新政府となって、
いろいろと新しいことが導入されるなかでの改暦は、
財政難打開の苦肉の策だったのかもしれません。
その後、1873年の日本の改暦を皮切りに、
徐々にグレゴリオ暦を導入する国家が増加していきました。
旧暦から新暦に変わったのはいつ?
日付を記した暦(カレンダー)は、
私たちの生活に、なくてはならないもので、
予定を書き込んだり、祝祭日を調べたり、とても便利な存在です。
日本の暦が、太陰暦(太陰太陽暦)から太陽歴に変わったのは、
明治5年12月3日からで、
歴史上、明治5年12月3日という日はありません。
突然、明治5年12月2日の次の日がいきなり、
明治6年1月1日になったそうです。
太政官布告第337号という法律により、
明治5年11月9日に、正式に改暦が決定・発表されました。
明治5年12月3日(明治6年1月1日)からの改暦まで、
残り1ヶ月もないという状態で、
さぞかし世の中はひっくり返ったのではないでしょうか。
当時、暦の販売権をもつ弘暦者は、
毎年10月1日に、翌年の暦の販売を始めることとしていたので、
この年もすでに翌年の暦が発売されていました。
ところが急な改暦により従来の暦は返本され、
翌年の暦は紙くずとなったのです。
また急遽新しい暦を作ることになり、
弘暦者は甚大な損害を蒙ることになったのです。
その時、慶応義塾の創設者・福澤諭吉は、
太陽暦改暦の決定を聞くと直ちに『改暦弁』という本を発表して、
改暦の正当性を論じました。
太陽暦施行と同時の1873年(明治6年)1月1日付けで、
慶應義塾蔵版で刊行された『改暦弁』は大いに売れて、
内務官僚の松田道之に宛てた1879年(明治12年)3月4日付の福澤の書簡には、
この出来事を回想して「忽ち10万部が売れた」と記しています。
この改暦という出来事で、
『得する人!損する人!』
大勢の人が大きく影響を受けたことは間違いありません!
旧暦と新暦の違いで季節のずれはどのくらい?
明治の初めまでの暦だった「旧暦」と、
現在使われている太陽暦の「新暦」って、
どういう違いがあるんでしょうか?
新暦は、改暦後の暦法のことで、
太陽暦(グレゴリオ暦)のことを言います。
私たちが使っているグレゴリオ暦は、
ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、
1582年10月15日から行用されている暦法で、
現在、太陽暦として世界各国で用いられているものです。
このグレゴリオ暦は、1年を365.2425日とし、
400年に97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、
平年を365日とし、4年に一度366日の閏年を置くというものです。
つまりグレゴリオ暦は、紀元前45年に運用開始したユリウス暦に、
閏年(うるうどし)の精度向上等を施したもので、
ユリウス暦に比べると格段に精度が向上したのです。
今、部屋の壁に貼ってあるカレンダーに書かれている、
1月から12月までの12ヶ月は、
1月・2月・3月・4月・・・・・12月と、月名は数字で表しています。
1・3・5・7・8・10・12月の7か月は大の月と呼ばれ、
ひと月が31日あります。
2・4・6・9・11月の5か月は小の月と呼ばれ、
2月以外は、ひと月が30日あります。
小の月を覚えるのに『西向く侍』という覚え方をします。
『西向く侍』とは『ニシムクサムライ』で、
2月から9月までは『二・四・六・九』なのですが、
“サムライ”というのは、武士の“士”という字が、
十と一で、立に続けて書くと“士”に見えることから、
“士”をサムライと読ませて『ニシムクサムライ』としています。
また、小の月でも2月は、28日だったり29日だったりしますが、
この2月が29日ある年を『閏年(うるうどし)と言います。
それに対して旧暦とは、
明治の改暦以前に使われていた暦法で、
太陰暦や太陰太陽暦と言われ、
明治改暦以降、正式な暦とはされていません。
太陰太陽暦は、月の満ち欠けと太陽の運行を組み合わせた暦法で、
立春に近い新月の日を1年の始まりの日としています。
大の月は30日、小の月は29日とされていて、
これは月の満ち欠けの1周期(1朔望月)が29.5日だからです。
大小の月は、おおむね交互に配置されていますが、
連続することもありました。
太陰太陽暦における1年の日数は、平年では354日程度で、
太陽暦の一年とくらべて約11日ほど短いのです。
この差を補うために約3年に一度、1ヶ月を加え、
一年を13ヶ月としていたのです。
ただしこれは、12月に次に13月という月があるというのではなく、
閏月の月名は、
例えば「四月」の次に挿入される閏月は「閏四月」と呼ぶという風に、
その前月の月名の前に「閏」を置いて呼称しました。
天体を観測して季節と暦のずれに注意し、
閏月が必要なときに『閏月』が挿入されました。
しかし、閏月をどの時期に入れるかについては、
同じ時代でも地域によって食い違うことがあり、
時として閏月を挿入する時期が異なっていたので、
日本国内で日付の異なる暦を使っていた事があるようです。
明治の改暦によって、暦は旧暦から新暦となりましたが、
「旧暦」は生活の中の重要な指針であり、
年中行事や祭礼などのいくつかは現在も旧暦によって行われ、
大切な役割を担っています。
日本には、春・夏・秋・冬 という四季があり、
新暦では、三月・四月・五月を春、
六月・七月・八月を夏、九月・十月。十一月を秋、
十二月・一月・二月を冬としています。
旧暦では、春は一月にスタートし、二月・三月が春で、
それに続き、四月・五月・六月は夏、
七月・八月・九月が秋で、十月・十一月・十二月は冬です。
そして旧暦の一月は、立春に近い新月の日です。
ですから、真冬の一月に届く年賀状に、
「新春」や「迎春」と書くのは、旧暦から来た表現なのです。
現在使われている新暦と旧暦とでは、
約1~2ヶ月のずれが生じます。
新暦に合わせて多くの年中行事が行われるようになりましたが、
「中秋の名月」など、
旧暦で行うのが一般的なものも残っています。
一般的に「旧正月」や「旧盆」と言われているものは、
「旧暦のお正月」や「旧暦のお盆」のことです。
季節の移り変わりは、太陽の動きに大きく関係していて、
二十四節気も太陽の動きをもとに作られているため、
旧暦から新暦になってもそのまま使えるので、
いまでも季節や農作業の目安として使用されています。
明治の改暦で、明治政府は混乱を避けるため、
政府発行の暦にも旧暦の日付が併記され、
翌年以後も旧暦併記が続けられました。
しかし、旧暦の暦に記されていた
日時の吉凶・禁忌などの迷信的な事柄をほとんど削除してしまいました。
迷信的暦注の削除は、民衆からはなかなか受け入れられず、
暴動さえ起こり、農村では長い間旧暦が生き残りました。
全国的に新暦が用いられるようになったのは、
改暦からずいぶん後のことで、
昭和になり、戦後の高度成長期になってからだったそうです。
その後、私たち日本人の生活のテンポが、
新暦に基づくようになったとはいえ、
今もなお、
旧暦が日本人の生活の一部となっていることに変わりはありません。
あとがき
太陽や月の動きや位置を調べ上げ、
暦を創ってきた先人たちの苦労って、
あまり感じていませんでしたが、
天文観測の機器やコンピューターのなかった時代、
どうしてこれだけのものが創れたのか不思議でなりません。