上野大仏は顔だけの大仏様 落ちそうで落ちないと評判で合格祈願に人気上昇中!

神社仏閣

上野大仏は顔だけの大仏様

絶対に落ちない
顔だけの大仏詣が人気上昇中です。

胴体がなく、顔だけの大仏・・・だから、落ちない!

上野公園の中ほど、不忍池近くに、
『合格祈願』と書かれた絵馬が鈴なりになっている場所があります。

そこはミャンマー様式のパゴダが建っているのですが、
何なのだろうと思って見まわすと…います、います!
その左手に大仏様が。。。。

しかも『上野大仏』と呼ばれるその大仏様は、
ナント顔だけなのです。

何故、顔だけなのかというと、
そこには波乱万丈の歴史がありました。

この大仏様を管理しているのは、
近くにある寛永寺の清水観音堂です。

上野大仏様の度重なる被災の歴史をご紹介します。

そして、何故今、合格大仏と言われるようになって、
受験生など多くの人々の参拝が後を絶たない理由が
わかってくると思います。

  

上野大仏は顔だけの不撓不屈の大仏様と言われる歴史

上野大仏は、もとは粘土に漆喰塗りの釈迦如来坐像で、
寛永八年(1631年)この寛永寺に邸宅を持っていた、
越後村上藩主・堀真直寄により、
戦乱武将の鎮魂のために建立されたものでした。

しかし、正保四年(1647年)の小田原地震に見舞われ倒壊し、
一回目のあたま落ちとなったのです。

頭部が崩れ落ちたため、
万治年間に、遊行僧・浄霊によって、
今度は青銅製の大仏に生まれ変わりました。

元禄十一年には、
公弁が大仏のために覆堂を建立しましたが、
天保十二年(1841年)には、仏殿から出火し覆堂の火災によって、
二回目のあたま落ちとなりました。

顔の部分は砕けてしまいましたが、
天保十四年、
堀直央氏の寄進によって大仏殿が修復されました。

そして、安政二年(1855年)に起こった安政の大地震で、
三回目のあたま落ちです。

この時も堀直央氏の寄進によって修復されたのですが、
明治八年、上野公園の整備に伴い、
大仏殿は撤去されることになりました。

大正十二年の関東大震災で、頭部が落下し四回目のあたま落ちです。

体の損傷も激しく、
大仏は壊れてしまいました。

傷だらけになった大仏は、いったん解体除去されて、
上野寛永寺に保管されましたが、
資金の目処が立たず、再建計画は頓挫したままになっていました。

そして昭和十五年(1940年)、
第二次世界大戦の戦況悪化による金属供出令によって、
軍需金属資源として 顔面部を残し、
大仏の体の部分をお国に差し出すことになってしまい、
大仏はとうとう、本当に顔だけになってしまったのです。

昭和四十二年、関東大震災の50回忌にあたり、
上野観光連盟が願主となりパコダを建立しました。

そして、昭和四十七年、
寛永寺に保管の顔面部はレリーフとして安置されたのです。

上野大仏は顔だけ 口コミで広がった受験のパワースポット

顔だけになってしまった上野の大仏様、
そのお顔は、寛永寺に保管されていました。

関東大震災から五十五年経った昭和四十七年(1972年)、
明治八年(1875年)まであった大仏殿と同じ場所に、
壁面に埋め込まれたレリーフの形で、
顔だけの大仏様として復活したのです。

壁面に埋め込まれたレリーフの形で、
もとは約六メートルの高さがあった大仏ですが、
顔だけだと大人の身長と変わらないくらいです。

そんな、目立たない小さな姿になってしまいましたが、
だんだんとお参りする受験生の姿が目立つようになってきました。

最初、寛永寺では参拝者が増えてきたことを不思議に思っていたそうですが、
顔だけが鎮座しているのだから、
『これ以上は落ちない!』と口コミで評判が広まっていることがわかり、
少しでも助けになるのならと、
『合格大仏』という立札を立てたというわけです。

そして、
「本当のご利益がありました!」「合格しました!」
という声が相次ぎ、
今では受験生の参拝者が絶えない、合格力のパワースポットになっています。

四回のあたま落ちという受難を超えて、
上野大仏は『合格祈願の神様』として、
見事に蘇ったのです。

上野大仏 顔だけの落ちそうで落ちない大仏さんのお守りの種類

寛永寺・上野大仏のお守りは、
シンプルですが、迫力ある大仏の顔をかたどった合格祈願のお守りがあり、
受験などの願掛けに人気があります。

上野大仏の絵馬は、中央にブルーグレーの大仏の顔が描かれた、
インパクトの強い絵馬になっています。

念を込めて願いをかけば、強力に後押ししてもらえそうです。

その他、上野大仏のご利益は、
開運招福や災難厄除け、煩悩減除

上野恩賜公園 丘陵上の正面にある建物は、
「パゴダ」と呼ばれるミャンマー様式の仏塔のことで、
上野観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために、
昭和四十二年三月に着工建設したものです。

パゴダは昭和四十二年六月に完成し、
高さ十五メートルのパゴダの内部には、
中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置しています。

この薬師三尊像は、江戸末期まで東照宮境内にあった薬師堂の本尊で、
明治初期の神仏分離令によって寛永寺に移管され、
さらにパゴダの本尊として迎えられました。

上野大仏

住所110-0007 台東区上野公園 4-8番

あとがき

一度や二度ではなく、
何度も存続の危機に見舞われたというのに、
幾度もよみがえられる上野大仏は、
身をもって私たちに不屈の精神を教えてくださっているようです。