晴明神社は京都のパワースポット その由縁は一条戻橋と安倍晴明邸にあった!

京都


晴明神社は京都のパワースポットとして人気を得ています。
撫でることで厄がよけられるという『桃』や『御神木』も、
厳かな空気に包まれパワーを感じることができる晴明神社の
場所に何かがあるのではないでしょうか。
謎めく一条戻橋の不思議とともに、
京都のパワースポット晴明神社の魅力と、
陰陽師安倍晴明そして陰陽道についてご紹介したいと思います。

  

晴明神社が京都のパワースポットといわれる由縁

晴明神社は京都のパワースポットといわれますが、
なぜ、
晴明神社にはパワースポットと言われる不思議な力があるのでしょうか?

陰陽師・安倍晴明に恐れるものなしと言われるほど、
鬼や式神を受有に操った安倍晴明がお祀りされている晴明神社です。

安倍晴明は、
鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖で、
陰陽師として名声を極めた晴明は天文道で培った計算能力をかわれ、
主計寮に移動して主計権助を務めました。

その後、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任して、
位階は従四位下に昇ったとか。

晴明神社で祀られている陰陽師安倍晴明は現代風に言うと、
皇室御用達の占い師という感じでしょうか?

陰陽道(おんみょうどう)は、
陰陽寮で教えられていた天文道、暦道といったものの1つです。

中国の陰陽五行説の概念を軸に陰陽説と密接な関係にある
天文学、暦学、易学などの自然哲学を付随させて、
さらに神道、仏教、修験道、禁呪道に影響を受けたことで
日本独自の思想・呪術体型として発展していったそうです。

明治維新後新政府によって陰陽道は廃止されましたが、
いまでも陰陽道で使われていた五行などは残っています。

一条戻橋から堀川通の西側を少し上がると、
晴明神社が建っています。

晴明神社の鳥居の額には『星形』」の社紋が描かれています。

鳥居をくぐり、
境内を本殿へと進むと、御神燈の星のマークが目を引き、
軒瓦にも星が刻まれていることに気づきます。

これは『晴明桔梗』と呼ばれる陰陽道の祈祷呪符のひとつで、
天地の間に循環している 木・火・土・金・水 の五つの気をかたどっています。

万物の除災清浄を表していて、
西洋でもまた魔除けの印とされています。

平安時代中期、ここ晴明神社は、陰陽道の大家・安倍晴明の邸があり、
清明の歿後に、晴明を祀ったのが晴明神社の起こりです。

このあたりは、平安京の東北の方角、
すなわち鬼門の方向に当たります。

鬼門は鬼や式神(陰陽師が操る精霊)が行き来する異界といわれています。

晴明は忌むべき魔界との接点にあたる場所に、
わざわざ邸を構えていたという、
なんとも不気味な演出だったといえるのではないでしょうか。

『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』によると、
安倍晴明は邸に誰もいないときは式神を使っていたのだろうか、
蔀戸がひとりでに上げ下げされたり、
人影もなく門が開閉するなど、不思議なことが多くあったと伝えられています。

式神に纏わる話は他にもあって、
晴明の技量を試そうと、播磨の国から子連れの老僧に扮した陰陽師が、
術を習いたいと邸に訪ねてきました。

一目会っただけで相手の正体を見破った晴明は、
後日よい日を選んでお教えしましょうと、いったん僧を返しました。

僧が連れていた子供を、陰陽師が操る式神と見た晴明は、
呪文を唱えてその子を隠してしまいました。

帰る途中でそのことに気づいた老僧は、
慌てふためきながら晴明邸に戻り降参し、
安倍晴明に弟子として仕えたいと言ったそうです。

今でも晴明神社は魔除けや厄除けの神社として信仰を集めています。

また、本殿北寄りにある晴明の念持力で湧出したという霊水『晴明水』は、
飲用すると悪病難病を治すといわれるなど、
晴明の威力たるや未だに凄いの一言といえます。


晴明神社は、フィギュアスケートの羽生結弦選手も信仰していると、
メディアで報道されて以来、
さらにお詣りされる方が増えました。

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晴明神社は京都のパワースポット 一条戻橋の不思議


一条戻橋の橋の下には、
安倍晴明が操っていた式神が住んでいたといわれています。

一条戻橋は堀川にかかる小橋で、名前の由来は、
延喜十八年(918年)、文章博士三善清行が蘇生した故事に基づきます。

文章博士三善清行の息子浄蔵は、熊野参詣の途中で父の死去を知り、
急いで帰京した浄蔵は、この一条戻橋で父の葬列に出会いました。

嘆き悲しみ棺にすがって神仏に祈ったところ、
父は生き返りました。

そこからこの橋を戻橋といわれるようになったということです。

その戻橋の西側に安倍晴明の邸がありました。(現在の晴明神社)

晴明は、この橋の上で毎晩星を占ったといい、
式神をこの橋の下に隠していたという話も伝わっています。

橋の東側には、源頼光の邸があり、
土蜘蛛や鬼たちが、この地を特別視していたことは言うまでもありません。

魔物退治の第一人者が、
この戻橋の両岸に暮らしていたのです。

また、中世になると、戻橋の付近は罪人の晒場でもあり、
刑場への引き回しルートのひとつで、
来世は真人間になるようにとの願いが込められていたといいます。

天正十九年(1591年)、
豊臣秀吉は大徳寺山門にあった千利休の木像をここではりつけにし、
三日後にはその首をさらすように命じています。

ながい歴史の中で、
都人が無視できない俗説も多く伝わっています。

花嫁行列や縁談のある人は、
現在でもこの橋を避け、渡らないと言います。

一方で、「この橋を渡って旅に出ると無事戻ることができる」と言って、
出張する商人もいたりします。

木造だった橋も、
今ではコンクリートに変わりスッキリと整備されています。

しかし、昔と変わらないところが一か所あります。

それは、若狭川の水面から橋までの距離で、
戻橋は、橋から川面までが、異様なほど離れています。

そこは、
人間以外のモノが棲むのにちょうどよい空間のようです。

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ナビゲーターは、大蔵流 狂言師 茂山千五郎家の茂山千三郎さんです。

晴明神社は京都のパワースポット安倍晴明邸にある!

安倍晴明は魔物の正体を見破る術や、
異界のモノを操ることができる陰陽師でした。

普通の人では見えないものが見える、
そういった職能の代表が陰陽師です。

風水の技術を会得し、自然を読み、鬼(式神)を操って、
時には人をも呪い殺すという、
科学の発達した現代からすると謎の多すぎる話です。

陰陽師で最も有名な安倍晴明(921年~1005年)は、
活躍した時代が、藤原道長の政権確立の時期と重なるため、
道長の危機を救ったという伝説が多く残っています。

道長が法成寺の門から入ろうとしたとき、
可愛がっていた白い犬が異常に吠えたのです。

さらに裾を咥えて行かせまいとします。

道長が晴明を呼んで占わせると、目の前の地面に危険が潜んでいる、
呪詛であると見抜きました。

さらに晴明は、
術を使ってその犯人が道魔法師(晴明の弟子)であることまで突き止めます。

道魔法師は、
道長の政敵・藤原顕光の命によって呪詛したことを白状しました。

晴明の使った術は、懐紙を鳥の形に作って呪文を唱えると、
いつの間にか白鷺となって犯人の家に飛び下りるというものでした。

晴明の呪文には異界のモノを操る力があったとしか考えられません。

晴明が道長の命を救った話がもう一つあります。

道長が物忌みのため、外出を控え家に閉じこもっていた時、
五月一日というのに南都より珍しい早瓜が献上されました。

道長とともに籠っていた晴明に占わせたところ、
「その中の一つに毒気がある」というのです。

さらに、加持祈祷をすればその毒は顕われると言うので、
同席の僧に加持をさせると、なんと瓜が動き出しました。

その毒気を押さえようと針を二本刺すと、
瓜はまったく動かなくなりました。

そこで腰刀を抜き瓜を割ると、
中には小さな蛇がとぐろを巻いていたのです。

見ると針は蛇の両眼を刺していて、
刃は蛇の鎌首を斬り落としていたのです。

また、安倍晴明には、
花山天皇(968年~1008年)とかかわった話も結構あるのです。

頭痛に悩まされていた花山天皇が、病気平癒を晴明に頼んだところ、
「帝の前世は偉い行者であり、大峰山で入滅されたのですが、
その髑髏が岩の間に挟まっているのです。
雨の日は湿気を含み膨張するので、髑髏はさらに圧迫されます。」と説明しました。

晴明の言う通り、雨の日、花山天皇の頭痛は一際悪化するのでした。

晴明は、
「その髑髏を取り出し、広いところに安置すれば頭痛は治ります。」と占いました。

占はピタリと当たり、帝の病は治ったということです。

また、ある時は星の動きに異変を察知し、
花山天皇の出家を予告したのも晴明でした。

晴明の威力が、
ほかの陰陽師に比べいかに凄いかを表した話があります。

晴明が内裏に出仕した時、
鳥が蔵人の少将に糞を落としているのを目撃しました。

晴明は「式神の仕業だ」と感じたのです。

それは鳥に姿を変えた式神が、少将に呪いをかけているところでした。

晴明は、ことの重大さを少将に告げ、
少将の邸で呪文を唱え夜を過ごしました。

すると明け方、少将の義理の兄弟が顔面蒼白の形相で現れました。

少将を妬んでいた兄弟が、陰陽師に頼み、
式神を使ってのろい殺そうとしていたのです。

ところが、清明の呪力に太刀打ちできなかった式神は行き場を無くし、
逆に自らを操っている陰陽師のほうを取り殺してしまったのです。

そんな晴明に、畏れを知らない僧が、問いただしたことがあります。

「あなたは式神を操るそうだが、それで人も殺せるのか」

「私の呪力を使えば容易いこと」と晴明

「では、あれを殺すことができるか」と言って僧は一匹の蛙を指さしました。

晴明は、その場の草を摘み、呪文を唱え蛙に投げつけました。

草が蛙に覆いかぶさるや否や、蛙は押し潰され死んでしまっていたのです。

さて、常に晴明のそばに付き添っている式神は、
一条戻橋の橋の下に棲み処を持っていました。

怖い容貌をしている式神たちは、清明の妻に恐れられ、
一緒に暮らすことはならなかったのです。

それゆえ、清明の邸の向い側にある橋の下の石櫃に籠っていたのです。

あとがき

安倍晴明は呪術でどのようなことでも叶えられる力を持った人だったのですが、
妻に
「あの式神さんは、こわい顔したはるよって、うちにはいれんといて!」
と言われたらしく、
自分に仕えてくれる式神さんに、
「嫁が嫌がるよって、すまんけど一条戻り橋の下に住んでくれへんか?」
って言ったのでしょうか。。。。意外と恐妻家?