大晦日は、どのような過ごし方をされますか?
久々にふるさとへ帰省して、家族や両親と過ごされる方、
家族で海外旅行されるリッチな方、
『正月は寝正月だ!』ということで、
大晦日は家族でNHKの紅白歌合戦を見てすごされる方など、
いろいろおられると思います。
今はほとんどの会社で、仕事納めは二十八日か二十九日となっていて、
家の掃除を済ませ、ひと足早くお正月気分の方もおられることでしょう。
サービス業などに従事されている方は、
『盆も正月もあったもんじゃないよ!』と言う方も。。。。
そんな大晦日の過ごし方は、
昔と今では随分違ってきているようです。
何故、十二月三十一日を大晦日と言うのでしょうか?
昔の人たちは、大晦日をどのように過ごしたのか、
そんな大晦日の過ごし方の、昔と今の違いをまとめてみました。
大晦日の過ごし方 家族で食べる年越しそばやおせち料理の風習
現在では、
大晦日の夜に『年越しそば』を食べる風習が普及していますが、
旧暦のこよみが採用されていた明治時代初期あたりまでは、
一日の終わりは日没で、
日没が過ぎると、新たな一日の始まりという認識が浸透していました。
そのため、大晦日の夜はすでに新年と考えられ、
大晦日の晩の夕食は、新年最初の食事と捉えられていました。
現在では、新年最初の食事といえば、
元日の朝に家族そろって食べるお雑煮やおせち料理のことです。
しかし、北海道や東北地方の一部では、
おせち料理を大晦日に食べる風習が残っているところもあり、
それは旧暦の風習の名残だと考えられます。
大晦日におせち料理を食べるだなんて、
「お正月が待ちきれないの?」って言われそうですが、
大晦日の夕方から、すでに新年とされていたとなれば、
大晦日の夜におせち料理を食べるのは間違いではなかったのですね。
おせち料理は、昭和の初め頃まではそれぞれの家庭で、
その家の自慢の味がありました。
今では出来上がったおせち料理を買うこともできますし、
お正月早々でも、スーパーやデパートなどで買い物ができますので、
作り置きしておく必要もなくなりました。
大晦日の夜の新年最初の食事は、
正月に歳神様にお供えするものと同じ食事を頂く、
『年越し膳』または『年取り膳』と呼ばれ、
特別な献立を口にする習慣がありました。
かつては魚が貴重な食材だったので、
西日本では、
出世魚とされるおめでたい魚のブリが、
東日本では、
卵をたくさん産むため、子宝に恵まれるとされている鮭が、
縁起物として、多くの家の献立に出されました。
さらに、
紅白なますなどの酢の物や、喜ぶに通じて縁起が良いとされる昆布、
汁物や根菜のメニューが並び、
大晦日の夜から新年を祝ったということです。
年越しそばを食べるという風習も、
大晦日の晩の夕食ということで、新年最初の食事でもあったわけです。
そんな大晦日に蕎麦を食べるという習慣は、
江戸時代頃から始まったと言われています。
蕎麦は、伸ばした生地を細長く切って食べることから、
長寿や健康を願い、縁起を担いだものとされています。
その一方で、
蕎麦は他の麺に比べて切れやすいことから、
「悪縁や災いを断ち切る」という意味もあったので、
どちらの意味で食べても、
年越しに食べるものとして相応しかったようです。
そばの実の収穫時期は、年に2回あって、
6月から8月中旬に刈り入れた蕎麦の実で作れらたお蕎麦を『夏蕎麦』
10月頃に収穫される蕎麦の実で作れらたお蕎麦を『秋蕎麦』と言います。
特に、 秋に取れたそばは「新そば」とも呼ばれ、
味、香り、色すべてが優れ、珍重されます。
年越しそばを食べる大晦日は、
美味しい『新蕎麦』が出回る時期になります。
年越しそばとして食べる蕎麦は、冷たくても温かくても良いのですが、
ちょうど新そばの時期ですので、
お蕎麦の風味を楽しみたいのでしたら、
ざる蕎麦などの冷たい蕎麦の方が新蕎麦の風味が一層味わえますね。
大晦日の過ごし方 家族で過ごす年末年始の昔と今
江戸時代の大晦日は、
今以上に生活に密着した大切な日でした。
江戸時代の借金の支払い方法は、盆と暮れの二季払いで、
年の瀬に商人の側が、売り掛けの代金を取りたてずに新年を迎えると、
お客の借金は、すべて帳消しになるというしきたりがありました。
そのため、大晦日になると商人たちは血相を変えて、
借金の取り立てに走り回る姿が見られたというのです。
借金を払う側の客も、身ぎれいになって新年を迎えたいという思いから、
大晦日には駆けずり回って、
借金を返すためのお金を工面しようと奔走しました。
それでも返済できない場合は、
言い訳をして回るのに大忙しとなったそうです。
しかし、借金を返そうとするものばかりではなく、
年を越せば前の年の借金はすべてチャラになる習慣を利用して、
あわよくば返済せずに逃げ切ろうという客も数多くいたのです。
江戸の大晦日は、歳神様をお迎えするために、
心身を清めて過ごすどころか、除夜の鐘が鳴るまで、
借金を巡って貸した側と借りた側の、決死の攻防が繰り広げられ、
異様なまでの活況を呈していたのです。
一年の前半にたまった穢れを祓うため、
六月に行われる『夏越の祓』から半年が過ぎ、
時の経過とともに、またたまっていった身の不浄や穢れを、
大晦日に祓う行事が『年越しの祓』または『大祓』といいます。
年末には、白い紙で作った人形(ひとがた)に、
住所や氏名、生年月日を書いて、
息を吹きかけたり、身体を撫でたりして穢れを移し、
川や海に流すことで厄を流し、
来る新年の健康を祈願する地域もあります。
江戸時代以降は、正月事始めの十二月十三日を迎えると、
誰もが歳神様をお迎えするための、正月の準備に入りました。
『煤払い』や『松迎え』を十三日に済ませ、
十四、十五日から多くの神社仏閣の境内で開かれる、
『歳の市』に足を運びました。
歳の市は正月に必要な商品を売る市で、
門松やしめ飾りなどの飾り物、
羽子板などの遊び道具、
掃除や調理に必要な道具を売る店が並び、
正月の準備に追われる人々が、思い思いの品々を買い求めました。
また、新しい道具で新年を迎えたいという人々の気持ちも、
歳の市の賑わいに拍車をかけたのです。
大晦日になると『捨て市』と称して、
捨て値でたたき売りが始まります。
格安のお買い得品を狙い、大晦日を待って、
歳の市で正月用品を買いそろえる庶民も少なくありませんでした。
大晦日の過ごし方 旧暦と新暦のこよみ
今、大晦日と言えば十二月三十一日のことで、
一年で一番最後の日のことを言います。
現在のこよみは、太陽暦を基準とした新暦を使っていますが、
明治の初めころまでは旧暦が使われていました。
新暦では十二月三十一日が大晦日ですが、
旧暦では十二月は必ずしも三十一日まであるわけではなく、
大晦日が十二月三十日だったり、
十二月二十九日だったこともありました。
月の周期は約29.5日で、旧暦のひと月にあたります。
ひと月が三十日に満たない時(29日までの月)は、
『九日晦日(ここのかみそか)』と呼んでいました。
旧暦では、各月の最期の日を“三十日”と書いて、
『晦日(みそか)』と呼んでいました。
月の満ち欠けを基準とした旧暦の太陽太陰暦では、
毎月の月の初めは、肉眼ではその姿が見えないほどのお月様を、
『新月』といい、
十五日には、まん丸くなったお月様を『満月』、
そして、末日に再びお月様の姿が見えなくなる日を、
『晦(つごもり)』と言いました。
“晦”は、月が隠れる日『月隠(つきごもり)』が訛った言葉で、
月の末日を意味しています。
晦日は、読んで字のごとく晦日の日という意味で、
やはり月の末日を表す言葉ですから、
『晦日』と言う日は毎月あったわけです。
そして、一年の最期の月『十二月』の最終日は特別な日として、
“みそか”に“大”の字をつけて『大晦日』と書き、
“おおみそか”や“おおつごもり”と読みます。
あとがき
大晦日の過ごし方で、
家族で過ごす大晦日やお正月の過ごし方も多様化してきました。
大晦日やお正月に『家族そろって』と言っても、
それぞれのスケジュールが合わず、
一緒に食卓を囲むことも少なくなりました。
『せめてお正月なんだから・・・』と言っても、
年末年始の正月休みは、お盆やゴールデンウイーク同様の、
ロングバケーションのひとつでしかなくなったのでしょうか。