生誕110年東山魁夷展 京都国立近代美術館と国立新美術館の詳細と見どころ

芸術


東山魁夷 生誕110年を記念して『東山魁夷展』が開かれます。

京都では30年ぶり、
東京では10年ぶりの大回顧展です。

日本の四季折々の風景や、世界の自然、街角をテーマに、
深い精神性を感じさせる風景画を描いた東山魁夷。

東山芸術の集大成として、
凝縮された自然と自らの生命を描き続けた作品群を遺し、
東山魁夷は、平成十一年(1999年)90歳で、
惜しまれつつその生涯を終えました。

生誕110年東山魁夷展では、
その東山芸術が人々に感動を呼び続けます。

  

生誕110年東山魁夷展 京都国立近代美術館と国立新美術館の詳細

太平洋戦争への応召、肉親の相次ぐ死といった試練の中、
風景の美しさに開眼。

戦後の日本を代表する画家・東山魁夷。

自然と向き合い続けた東山魁夷の画業を、
独自の詩情を交えて描き上げた風景画
『残照』や『道』、『緑響く』などの代表作から辿る

最大の見どころは、『唐招提寺御影堂障壁画』

鑑真坐像が安置されている御影堂内の襖絵で、
鑑真に捧げるためにと、
10年もの歳月をかけて完成させた作品を見ることができる、
貴重な機会です。

生誕110年東山魁夷展 京都国立近代美術館

会  期 2018年8月29日(水)~10月8日(月・祝)

開館時間 午前9時30分~午後5時(毎週金・土曜日は午後9時まで)
        入館は閉館の30分前まで

休 館 日 毎週月曜日
  (ただし、9月17日、24日、10月8日は開館。9月18日、9月25日は休館)

会  場 京都国立近代美術館 (岡崎公園内)
〒606-8344 京都市左京区岡崎円勝寺町

お問合せ 075-761-4111

アクセス
・市バス他系統ご利用の方
「岡崎公園 ロームシアター京都・みやこめっせ前」下車徒歩5分
「東山二条・岡崎公園口」下車徒歩約10分

・地下鉄ご利用の方
地下鉄東西線「東山」駅下車 1番出口より徒歩約10分

・お車でお越しになる方
当館には、一般のお客様にご利用いただける駐車場がございません。
近隣の有料駐車場施設のご利用をお願いいたします。
岡崎公園駐車場(グラウンド地下)

生誕110年東山魁夷展 国立新美術館

会  期 2018年10月24日(水)~12月3日(月)

開館時間 午前10時~午後6時(毎週金・土曜日は午後8時まで)
        入場は閉館の30分前まで

休 館 日 毎週火曜日

会  場 国立新美術館 企画展示室2E
〒106-8558 東京都港区六本木7-22-2

お問合せ 03-5777-8600(ハローダイヤル)

アクセス
・東京メトロ千代田線乃木坂駅 青山霊園方面改札6出口(美術館直結)
・東京メトロ日比谷線六本木駅4a出口から 徒歩約5分
・都営地下鉄大江戸線六本木駅7出口から徒歩約4分
 美術館に駐車場はございません

生誕110年東山魁夷展 京都国立近代美術館と国立新美術館の見どころ

東山魁夷展では、代表作である『道』『残照』『緑響く』のほか、
ヨーロッパや京都の古都の面影を描いた風景画など約80点と、
国民的画家と謳われた東山魁夷の、
画業の全貌を辿ります。

また、構想から完成までに10年を要した、
東山芸術の記念碑的大作、奈良唐招提寺御影堂の障壁画、
襖絵と床の壁面 全68面が、再現展示されています。

御影堂の修理に伴い、
障壁画も今後数年間は唐招提寺でも見ることができなくなるため、
御影堂内部を、ほぼそのままに間近に見ることができる、
大変貴重な機会となります。

生誕110年東山魁夷展 展示会の構成は、6章で構成されています。

★1章 国民的風景画家

終戦後、両親や弟が亡くなり、妻以外の身寄りを失い、
空襲で自宅も失った魁夷は、『残照』を発表する直前、
人生のどん底にいました。

写生のために訪れた千葉県鹿野山の山頂に座り、
沈みゆく太陽が、遥かに連なる峰々を、
刻一刻とさまざまな色に染めていく様を見て、
自然が作り出す光景と自身の心の動きが重なり合う充実感を味わいます。

終戦直前、死を覚悟した時に見た平凡な風景が、生命に満ち溢れて輝き、
何よりも美しく感じた体験もあり、
以後、気負うことなく素直な目と心で自然を見つめ、
そこに現れた生命に自分の心を重ねた風景画を描くようになります。

日本中を写生して回り、写生地の特徴を残しつつも、
普遍化された魁夷の作品は、
日本の風景に親しんだ人々にとっては、よく見知っているもののようで、
素直に心をゆだねることができる風景画となっています。

やがて東山魁夷は『国民的風景画家』とか『国民的画家』と
呼ばれるようになりました。

★2章 北欧を描く

昭和37年、魁夷は北欧の旅に出ます。

東京美術学校在学中に初めて接した、厳しい自然に溢れる木曽路など、
北の山国への旅は、先祖が瀬戸内海に浮かぶ島の出身で、
自身も太平洋側の港町に生まれ育った魁夷にとって、
その対極であるような未知の世界だったのです。

また、ドイツで美術史を学び、実際に西洋美術に触れる中で、
感覚的で明るい南の文化に魅力を感じつつも、
精神的で静かな北の文化に、より近臣間を覚えてもいたのです。

魁夷は『残照』『道』の発表以来、一躍人気画家になったにもかかわらず、
その安定した温かい場所から抜け出ようと考えていたのです。

はたして北欧の風景は想像通りのものであり、
魁夷の焦点にピッタリと合いました。

帰国後、連作を発表すると、幻想的で清澄な画面が評価され、
そこに青い色が多用されたこともあって、
『青の画家』というイメージが生まれたのです。

★3章 古都を描く・京都


京都は、北欧に旅立つ以前から、作家の川端康成より、
急速に失われつつあるかつての姿を画面に描き止めるように勧められていて、
また、魁夷自身にとっても、神戸時代以来度々訪れた懐かしい街でした。

帰国後、皇室から依頼された新宮殿の大壁画制作の仕事は、
設置される場所柄、日本的なものを前面に押し出した図柄にするため、
日本古来の文化の粋が集まる京都をモティーフに、
日本の古都を描くことに着手します。

新宮殿の大壁画が完成した年(1968年)、『京洛四季』展で連作が発表され、
大壁画とともに、北欧シリーズとは全く違う、
画家の大和絵的側面が現れた、日本回帰の作風として、
東山魁夷の作風に新たな魅力を加えることとなりました。

★4章 古都を描く・ドイツとオーストリア

京都シリーズを公表した翌年、魁夷はドイツ、オーストリアへと旅立ちます。

ドイツは東京美術学校卒業後から約年間留学していたため、
京都と同様に懐かしい町でした。

人が長い年月をかけて介入することにより、
親しみやすく雅やかにされた自然の風景を描いた京都の連作と比較して、
このドイツやオーストリアの連作は、
圧倒的に建物や街並みを描いたものが多く、
それは、魁夷が頻繁に建て替えられ、作り変えられる日本の街並みよりは、
人里近くの自然の方に、
日本人が長年培ってきた文化的な営みを感じることが出来、
一方、手つかずの自然からよりは、
長い年月人が生活し続けるドイツやオーストリアの、
堅牢な石造りの建物や街並みに、
古都の魅力である文化の蓄積を感じ取ったからではないでしょうか。

自然風景を主に描いてきた画家にとっては、やや異色な連作ですが、
これもまた東山魁夷の心を通わせることのできる風景画に違いなく、
その魅力は幅を広げていきました。

★5章 唐招提寺御影堂障壁画

昭和46年(1971年)、
魁夷は熟慮の末、前年の暮れに奈良の唐招提寺から受けた、
開山・鑑真和上の像を安置する御蔭堂の障壁画制作と、
御厨子内部装飾の依頼を正式に受諾しました。

大和朝廷の要請を受け、5度の渡航失敗を経て失明するも、
6度目にして漸く日本の地に辿り着いた鑑真。

その鑑真が見たかっただろう日本の風景を抽出した、
『山雲』(山の代表)を上段の間床及び違い棚の貼付絵と襖絵に、
『涛声』(海の代表)を神殿の間襖絵に、それぞれ描き、
第一期の仕事として昭和50年に奉納しました。

そして、鑑真和上の御厨子を取り囲むように設置される松の間には、
出身地である揚州の風景を襖に描いた『揚州薫風』を、
両隣にあたる梅の間と桜の間には、
第5回渡航に失敗した鑑真和上が一年間滞在した桂林の風景を、
襖に描いた『桂林月宵』と、
中国の景勝地を代表する黄山の風景を襖に描いた『黄山暁雲』を、
それぞれ配し、第二期の仕事として昭和55年に奉納しました。

昭和56年、最後に残った御厨子内部に、
鑑真和上が初めて立った日本の土地である鹿児島の、
秋目浦風景を描いた『瑞光』を奉納した時は、
構想から10年の歳月が流れていました。

『山雲』『涛声』の制作にあたっては、
これまでに多くの日本の山と海を写生し、
絵画化もしていたにもかかわらず、
改めて日本中を取材して回ったといいます。

また、
中国の取材は昭和53年の日中平和友好条約前であったため難航しましたが、
3年に亘って3回訪問して目的を達成しました。

画家人生で初めての水墨画にも挑戦し、『唐招提寺障壁画』の制作は、
魁夷にもう一つの重要な実りをもたらしました。

それは『白馬のいる風景』という、これまでの作例にはない、
全く新しいモティーフでした。

障壁画制作のため、鑑真和上の生涯や唐招提寺についての研究や、
構想を練ることに没頭した昭和47年(1972年)にだけ、
画面上を駆けたこの白馬について、
東山魁夷は後に、自らの“祈り”の現れであろうと述べているのです。

★6章 心を写す風景画

白馬に導かれるように『唐招提寺障壁画』を完成させた魁夷は、
この時初めて、描くことは“祈り”であり、それであるならば、
そこのどれだけの心を籠められたかが問題で、
美味い下手はどうでもいいことなのだと思うに至りました。

信じがたいことですが、
これまでずっと自分には才能がないと思い続けていた画家は、
やっと、自分が描き続けることの意味を悟り、
価値を見出すことが出来たのです。

より一層の多忙を極め、70歳を超えた魁夷は、
制作のために新たに写生に出ることも難しくなりましたが、
これまでに見つめてきた無数の風景と、描いてきたスケッチをもとに、
迷いなく制作を続けました。

そうして生み出された作品は、もはや日本でも外国でもなく、
特定の地から離れ、自らの心の中に形作られた風景を描いたものとなり、
東山魁夷の筆は画面の中を鮮やかに、自由自在に動き、
輝きを増していきました。

生誕110年東山魁夷のプロフィール

東山 魁夷(ひがしやま かいい)
明治41年(1908年7月8日) – 平成11年(1999年5月6)は、
日本の画家、著述家。

昭和を代表する日本画家の一人といわれ、文化勲章受章者。

千葉県市川市名誉市民 
本名は東山 新吉(ひがしやま しんきち)

略歴
1908年 横浜市に生まれる。
1929年 第10回帝展に「三国の秋」を出品し初入選。
1931年 東京日本美術学校日本画科卒業。結城素明に師事し、魁夷と号する。
1934年 第1回独文化交換学生としてベルリン大学入学。
1939年 第1回日本画院展で「冬日」が日本画院賞第一席となる。
1969年 文化勲章受章。文化功労者として顕彰される。
1979年 「日本東山魁夷絵画展覧会」が開催され訪独。
1980年 「第二期唐招提寺障壁画展」が開催される。
1995年 米寿記念「唐招提寺障壁画と画業60年の歩み、東山魁夷展」開催
1999年 死去。勲一等瑞宝章受章。

1999年、90歳で死去
生前、日展への出品作など、
代表作の多くを東京国立近代美術館と長野県に寄贈

船具商を営んでいた父・浩介と妻・くにの次男として横浜市に生まれる。
父の仕事の関係で3歳の時に神戸西出町へ転居。
兵庫県立第二神戸中学校(現兵庫高校)在学中から画家を志し、
東京美術学校(現:東京芸術大学)日本画科へ進学。
結城素明に師事。
在学中の1929年第10回帝展に「山国の秋」を初出品し、初入選を果たす。

あとがき

東山魁夷といえば、お亡くなりになってもう20年近くなり、
未亡人も一昨年暮れに亡くなっています。

少し前ですが、何だか残された財産や美術コレクションなど、
総額約15億円にも上る遺産について、
骨肉の相続争いが起きているということです。

東山魁夷ご夫婦に、お子さんはなく、
未亡人は、日本画家・川﨑小虎のお嬢さんで、
その御兄弟や甥っ子さん方が相続人となるのです。

あんなに優しく穏やかな絵をたくさん描かれていた先生は、
どんな思いでこの騒動を、空の上から見ておられるのでしょうか。