藤田嗣治は日本で生まれ、
その人生の大半をフランスで過ごしました。
画家・藤田嗣治(レオナ—ル・フジタ)は、
日本を愛しながらも、何故、パリに生きたのでしょう。
パリでの成功後も戦後も、
存命中には日本社会から認められることはついになかった藤田嗣治。
死後に日本でも藤田の評価がされるようになり、
展覧会なども開かれるようになった藤田嗣治が、
2018年に没後50年を迎えるのを機に、
これまででもっとも大規模な回顧展が、
東京都美術館と京都国立近代美術館で開催されます。
藤田嗣治展 没後50年大回顧展が東京と京都で開催
没後50年となる藤田嗣治展が東京と京都で開催されます。
東京都美術館 没後50年 藤田嗣治展
会期
2018年7月31日(火)~10月8日(月・祝)
会場
東京都美術館 企画展示室
〒110-0007 東京都台東区上野公園8-36
TEL : 03-3823-6921 FAX : 03-3823-6920
休室日
月曜日、9月18日(火)、25日(火)
ただし、8月13日(月)、9月17日(月・祝)、24日(月・休)、
10月1日(月)、8日(月・祝)は開室
開室時間
9:30~17:30(入室は閉室の30分前まで)
夜間開室
金曜日は9:30~20:00(入室は閉室の30分前まで)
ただし、8月3日(金)、10日(金)、17日(金)、24日(金)、31日(金)は 9:30~21:00
観覧料
前売券
一般 1,400円 / 大学生・専門学校生 1,100円 / 高校生 600円 / 65歳以上 800円
各種観覧券等の詳細は特設WEBサイトへ
当日券
一般 1,600円 / 大学生・専門学校生 1,300円 / 高校生 800円 / 65歳以上 1,000円
団体券
一般 1,400円 / 大学生・専門学校生 1,100円 / 高校生 600円 / 65歳以上 800円
団体割引の対象は20名以上
中学生以下は無料
身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳
被爆者健康手帳をお持ちの方とその付添いの方(1名まで)は無料
いずれも証明できるものをご持参ください
特設WEBサイト http://foujita2018.jp
お問い合わせ先 TEL:03-5777-8600(ハローダイヤル)
京都国立近代美術館 没後50年 藤田嗣治展
会期:2018年10月19日~12月16日
会場:京都国立近代美術館
住所:京都府京都市左京区岡崎円勝寺町26−1
藤田嗣治 略歴
1886年
東京市牛込区(現在の東京都新宿区)
新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。
父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、
森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物
1905年
東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に入学する。
1910年に卒業
1912年に女学校の美術教師であった鴇田登美子と結婚
新宿百人町にアトリエを構えるが、
フランス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、
最初の結婚は1年余りで破綻する。
1913年(大正2年)に単身渡仏
1914年、パリでの生活を始めてわずか1年後に第一次世界大戦が始まり、
日本からの送金が途絶え生活は貧窮した。
1917年3月
カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と、
2度目の結婚をした。
1922年 乳白色の肌で注目を集める
1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、
ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。
1929年 日本に凱旋帰国
1931年 世界各地を旅する
1933年 日本に帰国
1935年に25歳年下の君代(1911年 – 2009年)と出会い、
一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添った。
1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中国に渡り、
1939年に日本に帰国した。
1949年に終戦後の連合国軍の占領下において、
画壇で影響力を増してきた共産主義者などから
「戦争協力者」と批判されることに嫌気が差して日本を去った。
1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)
1957年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られた。
1959年にはランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受け
レオナール・フジタとなった
1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死亡
遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクル(フランス語版)に葬られた。
日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。
藤田嗣治展 没後50年 レオナール・フジタ 作品の特徴
人生の半分以上を異郷で暮らし、フランス国籍を取得して後、
二度と日本に戻ることなく没した藤田嗣治(レオナール・フジタ)
その作品には『世界に日本人として生きたいと願ふ』という、
フジタの知られざる思いがあった。
藤田嗣治は、
第二次世界大戦以前に欧米で成功した、唯一の日本人画家といえる。
藤田嗣治は、それまで誰も目にしたことのない独自の技法で、
乳白色の婦人像を描き、一躍パリ画壇の寵児となりました。
おおかたの日本人画家は、当時、
世界の美術の中心地だったパリで、西洋の絵画を学び、
それを持ち帰って日本画壇で活躍しようとしていた時代でした。
しかし、藤田嗣治はパリへ行って、
そこで日本人の西洋画を世界に認めてもらうことを目指していたのです。
藤田嗣治のトレードマークといえる、
おかっぱ頭にロイドメガネといったスタイルや、
時には仮装して派手なパフォーマンスもやってのけた。
それは藤田嗣治自身が自分自身を商標化し、
当時、ジャポニズムが隆盛だったパリの画壇に、
自分をプレゼンするための戦力だったのかもしれません。
まさに自己プロデュース、
キャラの確立を目指していたのではないでしょうか。
藤田嗣治は、モディリアーニやピカソらと交流を深め、
アンリ・ルソーやキュビズムの作品などからも、
自身の糧となるものを貪欲に吸収していったのです。
さまざまな画風にチャレンジし、
西洋でも通用する独自の画風を構築していったのです。
藤田嗣治の絵の特徴ともいえる、乳白色の下地と黒い輪郭線の技法。
藤田嗣治は明らかにしていませんが、
目の細かい麻布のキャンパスを手作りし、
油性塗料とベビーパウダーを混ぜ合わせて下地にすることで、
半光沢のある乳白色を表現したのです。
そして、その乳白色の艶やかな肌に墨で輪郭線を描いた、
今まで見たこともないような質感は、大反響を呼んだのです。
藤田嗣治は、イメージ戦略も、マーケティングも一人でこなす、
プロデューサー的能力を持ち合わせるクリエイターだったのです。
また、藤田嗣治は、絵の中に登場する小物や額までも自分で作るといった、
まさに職人でもあったのです。
藤田嗣治展 没後50年 作品に込められた愛国心
藤田嗣治の生き方は、当時の日本には早すぎたようで、
日本における藤田嗣治の評価は、
好意的な受け取り方ばかりではなかったようです。
1929年、藤田嗣治はパリで成功した画家として凱旋帰国します。
藤田嗣治は、1933年に日本に帰国定住するのですが、
周囲とはどこかしっくりしない雰囲気が漂うのです。
そうした居心地の悪さを一掃し、藤田嗣治の日本での評価を高めたのは、
日本軍から依頼された作戦記録画だったようです。
大画面構成の写実的な戦争画を次々と制作し、
大衆の心を捉えていきました。
藤田嗣治が自身の作品で、唯一日本人に多く受け入れられたと感じたのは、
戦争画だけだったのです。
しかし、戦後は状況が一変し、藤田嗣治と日本画壇との間に、
またもやしっくりと来ない関係が一気に噴出します。
藤田嗣治は戦争協力者という烙印を押され、
手のひらを返したような日本人の反応を目の当たりにするのです。
母国のナショナリズムに巻き込まれてしまった藤田嗣治は、
日本を深く愛しながらも、日本画壇には愛されることはなかったのです。
そんな藤田嗣治は戦後再びフランスに渡ると、
二度と日本の土を踏むことはなかったのです。
藤田嗣治は終生、画風を変革し続け、
フランスでは空想の世界の子どもたちを数多く描き、
晩年は帰化しカトリックに改宗しました。
その後、キリスト教を主題とした絵画制作に傾倒していきますが、
最後まで日本への愛惜の思いを抱き続けていたのではないだろうか。
終の棲家となったアトリエには、
愛聴した広沢虎造の浪曲と美空ひばりのLP全集が残ったいたそうです。
藤田嗣治 手紙の森へ <ヴィジュアル版> (集英社新書) [ 林 洋子 ] |
あとがき
藤田嗣治の絵の『乳白色の肌』の秘密が、
和光堂のシッカロールだったって、
知ってました?
『乳白色の肌』の秘密の技法で、
とろけるような優しい絵になるのですね。