“耳に手を当てて口を開けるポーズ”
多くの人が『ムンクの叫び』を連想することでしょう。
2018年秋、ムンクの叫びが初来日、
本家本元の“叫び”に、日本で出会える絶好のチャンス到来です!
2018年、ムンクの『叫び』旋風が吹き荒れます。
狂気の画家といわれたムンクが絵に込めた思いは何だったのか、
ムンクの絵に込められた真の思いを想像しながら
ムンクの絵画をもう一度見直せば、
“叫び”の意味が見えてくるかも知れません。
叫んでいないムンクにも注目です!
ムンク展2018 東京都美術館 開催日程
東京都美術館で『ムンク展』2018が開催されます。
会期は2018年10月27日〜2019年1月20日
オスロにあるムンク美術館が所蔵するムンク作品の、
油彩「自画像」「絶望」「星月夜」などを含む、
約100点(油彩は60点以上)を一堂に紹介する大がかりな展示になります。
もちろん、かの有名な「叫び」(ムンク美術館所蔵)も初来日します。
怯えるように耳を塞ぐ人物、
遠景には血のように赤い夕焼けが広がり、
空や海は渦を巻いて歪んでいる。
ノルウェーを代表する画家『ムンク』のあまりにも有名な作品
『叫び』です。
実は、
多くの人がこの絵に対して大きな勘違いをしているというのだ。
この絵の題名は“叫び”でも、
絵の中の人物は誰一人として叫んではいないと言うのだ。
耳を塞ぐ人物は、
「自然を貫く果てしない叫びが聞こえ、思わず耳を塞いだ」と、
ムンク自身が日記に記しているというのです。
では、『自然を貫く果てしない叫び』とは、
いったい何を意味しているのだろう。
血のように赤く染まる夕焼けを見て、
突如、
不安や絶望的な思いに襲われた自分の心の中の悲鳴が聞こえたと考えられています。
ムンク自身が友人と海辺を散歩しているときに突然、
湧き上がってきた言い知れぬ不安な感情ではないかといわれています。
画面の左端に、友人二人が遠く離れて立っているところが、
耳を塞いでいる人物の、怯えた様子や孤独感を強く印象付けています。
さらに後ろに見える海辺の風景が、
まるで溶けたかのように歪んでいるのは、
何かに動揺し、不安定になったムンクの心象風景そのものと解釈できます。
ムンク展2018 東京都美術館 ムンクの叫び 初来日
ムンクの作品は『叫び』のほかにもいくつかありますが、
それらムンクの作品に共通して見られるのは、
生の不安や死への恐怖が、見え隠れしているように感じます。
不安
叫び
絶望
ムンクの作品に描かれている、少女であれ男性であっても、
人生に絶望し、打ちひしがれたかのように、まったく無表情に思えるのです。
ムンクが繰り返し、このように『生への不安』を描いたのには、
ムンク自身の生い立ちがそうさせているのか、
大きく影響しているように思えるのです。
ムンクは、医師の家に生まれ、
当時のノルウェーの首都だったクリスティアニア(現在のオスロ)で育ちました。
5歳の時に母親が結核を患い亡くなってしまいます。
さらに13歳の時、
ムンクをかわいがってくれた2歳年上の姉 ソフィーエも結核で亡くなります。
特に大好きだった姉の最期を看取った、ムンク少年時代の辛い体験が、
生や死への不安と、
肉親への満たされぬ思いとして、生涯付きまとったようです。
しかし、そこから逃げることなく、17歳で画家になることを決意し、
なくなった姉の闘病生活を重ね合わせた、
『病める子』の主題を、油彩画や版画で繰り返し制作していき、
死の記憶や生の不安を芸術の中に昇華させていったようです。
ムンク展2018 東京都美術館 狂気の画家を分析
ムンクのことを『死に取り憑かれた狂気の画家』と評する人がいる。
確かに不安や絶望、死への恐怖など心の闇を描き、
ムンクも神経症に悩まされてはいた。
しかし、心のバランスを崩すときはあっても、
ムンクは理性的で計画性を持った『正気の画家』ではなかったか。
その証拠に、装飾プロジェクトという壮大な構想を実現しようと、
画業の大半を費やしていたというのです。
ムンクが修正、追い求めた装飾プロジェクトとは、
『叫び』『生命のダンス』『吸血鬼』などの、
代表作を個々に展示せず、
交響曲にように全体で一つの作品として鑑賞してもらうという大胆な構想です。
1902年に開催されたベルリン分離派展では、
『生命のフリーズ』と題して、初めて装飾プロジェクトを試みていますが、
その展示手法はとても型破りなものだったということです。
展示室の壁を一周するように、天井に近い位置にぐるりと作品が連なり、
まるで部屋の装飾壁画のような雰囲気が醸し出されていたそうです。
『生命のフリーズ』のフリーズとは、ギリシア建築の帯状の装飾のことで、
ムンクは装飾プロジェクトを完成させることを夢見て、
晩年はアトリエの中でも『生命のフリーズ』の展示を再現していたのです。
人間の一生や運命について、
自らの一連の作品で見つめ直していたのかもしれません。
40代になったムンクは、画家としての成功とは裏腹に、
対人恐怖症や神経症 依存症などの症状が重くなり、
45歳の時にデンマークの精神病院で入院治療を受けています。
この前後から、ムンクの作風は大きく変化し、
画面は明るく筆致は明らかに軽くなっていきました。
それ以降創作の興味は、不安や死ではなく、
社会やノルウェーへの祖国愛に向けられ、
労働者や公共建築の壁画を盛んに描くように様変わりしました。
社会主義が台頭する時代の空気とともに、
労働者階級に関心を寄せたムンクは、
『疾走する馬』など、たくましく働く労働者の連作を次々と制作していったのです。
さらに52歳では、大小11の壁画から構成される渾身の作、
『オスロ大学の講堂壁画』を2年がかりで仕上げました。
『自然の力と人間の知力との調和』を主題にした壁画の正面には、
太陽が生命の根源として燦然と輝いています。
ムンクが理想とした『生命のフリーズ』の最終章は未完成に終わりましたが、
それに代わる雄大な永遠の力を描いた装飾壁画が完成したのです。
エドヴァルド・ムンク
1863年12月12日 – 1944年1月23日)
あとがき
小学校の頃、美術の教科書で見た『ムンクの叫び』に、
強い衝撃を受けた記憶があります。
叫んでいるのか、怯えているのか、
もしも叫んでいるのなら、
『キャー!』なのか『ウォー!』なのか、
そんなことを想像した覚えがあります。