白峯神宮は古代のサッカー、つまり蹴鞠発祥の地だということは、
白峯神宮へ訪れてみればよくわかります。
境内に飾られた絵馬や日本サッカー協会をはじめ各種スポーツにおいて、
使用された公式球が奉納されていることが物語っています。
また、この白峯神宮の御祭神としてお祀りされている崇徳天皇の、
置かれた悲しい身の上は有名です。
明治天皇は父帝(孝明天皇)の御遺志を継承し、白峯神宮を建て、
崇徳天皇を御神体としてお祀りしました。
そんな白峯神宮についてご案内します。
白峯神宮は古代のサッカー蹴鞠発祥の地
白峯神宮が一躍有名になったのは、
2002年の日韓共同開催サッカーワールドカップの時です。
サッカーの日本代表選手たちが、必勝祈願の訪れたことがきっかけです。
では、なぜ日本代表選手が白峯神宮を訪れたのでしょう?
それは白峯神宮とサッカーには深い御縁があったからなのです。
大化の改新…というと話は古くなりますが、
大化元年(645年)に、
豪族中心の政治から天皇中心の政治へと転換させた政治改革が、
大化の改新なのですが、
この大業を成し遂げたのは、ご存知、中大兄皇子と藤原鎌足です。
この二人が親しくなったきっかけが蹴鞠だったということは有名な話です。
蹴鞠は600年代、
つまり、大和朝廷時代に中国から仏教とともに伝わってきました。
中国では結構激しいスポーツでしたが、
日本では、リフティングとアシストのうまさを競う、
勝ち負けを求めない、いたって平和な球技にアレンジされたのです。
その友好的な蹴鞠を通じて親しくなった二人が、
手を取り合って大化の改新を成功させたというのは面白い話です。
そして、和歌とともに、この蹴鞠の師範を家業としたのが飛鳥井家でした。
その飛鳥井家の跡地に建つのが白峯神宮なのです。
飛鳥井家では邸内に蹴鞠の守護神である『精大明神』を祀っていましたが、
お参りをした公家の藤原成道は、蹴鞠がみるみる上達し、
蹴聖とまで言われるようになりました。
それ以来、蹴鞠の上達を願って、
たくさんの人々が訪れるようになったそうです。
この時はまだ白峯神宮ではなく、飛鳥井家の『精大明神』でした。
白峯神宮はあらゆるスポーツに霊験あらたか
白峯神宮はいま、千四百年の時を経て、球技をはじめとする、
あらゆるスポーツに霊験あらたかなところとされ、
プロ選手からスポーツ少年までが参拝します。
境内には地元の京都サンガはもちろんのこと、
全国のJリーガーや、社会人ラグビーのチームなどの、
必勝祈願の絵馬が数多くかかっています。
その中に混じって、
「レギュラーになれますように!」
「優勝祈願 ○○高校サッカー部」など、
スポーツ少年やファンたちの熱い思いが溢れる絵馬も見られます。
また、境内にはたくさんのボールがあり、
必勝祈願に訪れた選手たちが、勝利のお礼参りをしたときに、
奉納したものがあります。
特に社務所には、サッカーワールドカップや、
オリンピックの女子バレーボールで使用されたものも奉納され、
じかに触ることもできるため、子供たちの人気を集めています。
スポーツ上達を目指す人は、一度訪れてみてはいかがでしょうか。
白峯神宮の蹴鞠保存会によって、
毎年四月十四日(春季例大祭・淳仁皇祭)と、
七月七日(精大明神祭・七夕祭)には、奉納蹴鞠が行われます。
白峯神宮の御神体 崇徳天皇の悲しい歴史は?
そんな白峯神宮の歴史はというと、
白峯神宮は崇徳上皇の怨念を鎮めるところでもあるのです。
保元の乱(1156年)で敗れた崇徳上皇は、出家して讃岐に配流されます。
侘しい配所で崇徳上皇は思いました。
「もし、この地で息絶えたなら、私の魂は鬼と化すかもしれない。
罪業消滅のために五部の大乗経を写そう。・・・」
崇徳上皇は出来上がったお経を都へ送り奉納を願います。
しかし、たとえ筆跡であっても、都へ置くことはならないと突き返されます。
崇徳上皇は無念の思いを抱き、
送り返された教文を鬼神に捧げ都を呪ったのでした。
崇徳上皇は怨念を抱いたまま八年の歳月を過ごし歿しました。
それから時は流れ、白峯神宮は明治の初年に、
讃岐より崇徳上皇の御神体を迎えて造営された神社なのです。
白峯神宮に祀られた崇徳天皇(1119年~1164年)は、
鳥羽天皇の第一皇子の位にありながら、
父帝との不仲により退位させられ、
保元の乱で敗北し、配流の地 讃岐で無念の死を遂げ、
怨霊となった天皇なのです。
崇徳天皇の悲しい歴史
平安末期、白河天皇は弱体化した藤原氏を抑えて政治を行い、
譲位後は上皇として院政を開始しました。
永長元年(1096年)娘の死を契機として出家し法皇となりました。
嘉承二年(1107年)堀河天皇が亡くなると、
孫の鳥羽天皇が五歳で即位し、法皇はそのまま院政を続けたのです。
崇徳天皇も白河法皇の意向により五歳で即位しました。
しかし、大治四年(1129年)、堀河・鳥羽・崇徳と、
三代の天皇にわたって院政を行ってきた白河法皇が崩御しました。
今度は鳥羽上皇による院政が始まると、
崇徳天皇の立場は危うくなってきたのです。
内心では次は自分が院政をと思っていたところを、
父である鳥羽法皇は崇徳天皇を嫌っていて、
二十三歳の若さで譲位させ、弟の近衛天皇に即位させたのです。
隠居させられた崇徳上皇は嘆くのですが、
近衛天皇の後、次期皇位継承は自分の子であるはずだから、
それまでの辛抱と思い我慢していました。
久寿二年(1155年)、近衛天皇が崩御しますが、
新帝にはもう一人の弟、後白河天皇が即位し、
そして後白河天皇の皇子(後の二条天皇)が立太子したため、
我が子への皇位継承の望みは全く絶たれてしまったのです。
夢は破れ、崇徳天皇の絶望感たるやいかばかりだったのでしょう。
しかし、諦められるものではなく、
父である鳥羽法皇への憎しみは増すばかりでした。
1156年、年号が保元と改まり、まもなく鳥羽法皇は病気で崩御しました。
崇徳天皇と鳥羽法皇の対立は、そのまま後白河天皇との対立となり、
深まっていくのでした。
ついに二派のもとに、摂関家、平氏、源氏を巻き込み、
親子やおじと甥が敵と味方に分かれて戦うことになって行きます。
これが保元の乱なのです。
白峯神宮へのアクセス
スポーツの守護神・武道上達の神・上昇氣運の神 白峯神宮
白峯神宮の鎮座地
〒602-0054 京都市上京区飛鳥井町261番地
この地は、蹴鞠・和歌の宗家 飛鳥井家(あすかいけ)の邸宅跡
電話: 075-441-3810 / FAX: 075-441-3820
祭神:崇徳天皇(すとくてんのう)・淳仁天皇(じゅんにんてんのう)
社格:官幣大社、別表神社
創建:明治天皇
白峯神宮は、今出川通り堀川交差点を西へ少し行ったところ。
すぐそばには安倍晴明で有名な晴明神社や、
人形寺と親しまれている宝鏡寺があります。
白峯神宮 http://shiraminejingu.or.jp/
交通アクセス
市バス
堀川今出川下車
9・12号東へ徒歩1分
51・59・201・203号すぐ目の前
地下鉄
烏丸線今出川駅下車
④号出口より西へ徒歩8分
あとがき
2018年6月14日から7月15日にかけて、
第21回目のFIFAワールドカップがロシアで開催されます。
白峯神宮は、それほど大きい神社ではありませんが、
きっと白峯神宮もサッカーファンが祈願に大勢訪れると思います。
主祭神としてお祀りされている崇徳天皇や淳仁天皇のことを想う人は、
あまりおられないように感じます。