北斎の娘 応為(お栄)を描いた宮崎あおいのNHKドラマ~眩(くらら)放送日は?

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北斎の娘 応為(お栄)を描いたNHKドラマ
朝井まかて/著 北斎の娘~眩(くらら)の放送日はいつなのか?
女優宮崎あおいさんが演じる
NHKドラマ~眩(くらら)のあらすじが気になります。
北斎の娘 応為(お栄)とはどんな人だったのか、
北斎の娘 応為(お栄)の晩年と作品についてご紹介します。

  

北斎の娘 応為(お栄)を描いたNHKドラマ~眩(くらら)の放送日は

葛飾北斎の娘 応為(お栄)を描いたドラマが、
主演の応為(お栄)役を、女優宮崎あおいさんが演じ放送される。

葛飾北斎を演じるのは、長塚京三さんで、
お栄の良き理解者を演じる松田龍平は、
NHKでは連続テレビ小説「あまちゃん」以来の本格的なドラマ出演。

放送日は 2017年9月18日(月)
総合よる7時30分から8時43分 単発放送が予定されている。

このドラマの原作は、朝井まかて/著 北斎の娘~眩(くらら) ~

北斎の娘にして「江戸のレンブラント」
天才女絵師・葛飾応為の知られざる生涯を描いたもの。

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アメリカの有名雑誌の
「この千年でもっとも重要な功績を残した100人」で、
唯一選ばれた日本人「葛飾北斎」。

その天才画家・北斎を陰で支えつつ、
晩年には独自の画風にたどり着いた北斎の娘「お栄」。

そのお栄の半生にスポットを当てた、
直木賞作家・朝井まかて氏の小説「眩(くらら)」を4Kドラマ化した。

北斎の娘~眩(くらら) ~
あたしはただ、絵を描いていたいだけ。
愚かな夫への軽蔑、兄弟子への叶わぬ恋、
北斎の名を利用し悪事を重ねる甥――人生にまつわる面倒も、
ひとたび絵筆を握ればすべて消え去る。

北斎に「美人画では敵わない」と言わせ、
西洋の陰影表現を体得し、
全身全霊を絵に投じた絵師の生涯を圧倒的リアリティで描き出す、
朝井まかて堂々の代表作!

原作者 『朝井まかて』は、
1959年大阪府生まれで、甲南女子大学文学部卒業後、広告会社勤務を経て独立。
2008年小説現代長編新人賞奨励賞を受賞して作家デビュー。

2013年に発表した『恋歌』で本屋が選ぶ時代小説大賞を、
翌2014年に直木賞を受賞。
続けて同年『阿蘭陀西鶴』で織田作之助賞を受賞した。

2015年には
『すかたん』が「大阪の本屋と問屋が選んだほんまに読んでほしい本」に選出。

その他の著書に
『ちゃんちゃら』『先生のお庭番』『ぬけまいる』
『御松茸騒動』『藪医 ふらここ堂』がある。

【脚本】大森美香
【音楽】稲本響
【出演】宮崎あおい 松田龍平、三宅弘城、余貴美子、
    野田秀樹、長塚京三 ほかの皆さん
【制作統括】佐野元彦(NHKエンタープライズ) 中村高志(NHKドラマ番組部)
【演出】加藤拓(NHKエンタープライズ)

NHKドラマ北斎の娘~眩(くらら) ~のあらすじは?

江戸の天才絵師・葛飾北斎の三女として生まれたお栄(後の葛飾応為:宮崎あおい)は、
まわりの勧めで、町絵師である吉之助(南沢等明)という絵師に嫁ぎ、夫婦になった。

しかし、吉之助に口うるさくされると、
――ああ……面倒臭ぇ・・・ と本音が口をつく。

(そうさ、あたしは北斎の娘さ。なのにその才を受け継がずにのたくっている)

北斎になりたいのか。
そうかもしれない。

いや、違う。もっと違う北斎だ。
つまりはわたしになりたいんだ。

そのわたしに、まだ手が届かない。
じれったい。

 だから、お栄は亭主に愛想尽かしをする。

「あたしはね、区々たる事に構ってる暇はないんだよ」
 ここまで、きっぱり、区々たる事と言われたら、
男は成仏するしかないだろう。

ちなみに実際の応為も、
 ――妾は筆一枝あらば衣食を得ること難からず何ぞ区々たる家計を事とせんや
と喝破した。

箸を持つより絵筆を持つのが好きで、
父であり、師である北斎(長塚京三)の元に嫁ぎ先から戻ってきた。

そこから「超えられぬ高き壁・北斎」の絵の手伝いが始まった―。

そんなお栄が、ちょいと惹かれるのが、
善次郎こと絵師の渓斎英泉(松田龍平)だ。

元は武士で浮世絵を描くようになった男だ。

無頼の趣があり、
淫靡で退廃的な美人画では他の追随を許さない。

お栄にしても美人画を描けば、
北斎から認められた腕前だ。

英泉も、お栄のことを、
 ――画ヲ善ス 父ニ従テ今専画師ヲナス 名手ナリ、としている。

お栄は北斎の弟子筋の絵師・善次郎にだけは、
苦しみや悩みを話すことができた。

それは思うに任せない、「出戻りお栄」の密かな恋心であった。

生まれながらにして北斎という大きな背中を見てきたお栄は、
父・北斎を手伝う中で、「色」というものに執着を始める。

ふたりとも飽き足りないものがある。

いつか越えてやる、と口にはしないが、
見つめているのは、〈親父どの〉北斎の大きな背中なのか。

お栄にとって口うるさい母親の小兎、

北斎の晩年を悩ます孫の時太郎、絵師の一家は倒けつ転びつ、
すり傷だらけになりながら、時代の坂を駆けていく。

 描かれるのは絵師に限らない、
物を作り出す人間の生きる覚悟だ。
不出来な作品を世に出せないという弟子たちに北斎は言う。

――たとえ三流の玄人でも、一流の素人に勝る。

なぜだかわかるか。

こうして恥をしのぶからだ。
己が満足できねぇもんでも、歯ぁ食いしばって世間の目に晒す。

そして北斎の代表作である「富嶽三十六景」が完成した時にも、
そばにはお栄がいた。

父が高齢となり、思うがままに筆を動かせなくなってからも、
お栄は父の「筆」として北斎の絵を描き続ける。

やがて時は過ぎ、
心の中で常によりどころであった善次郎そして、北斎もこの世を去る。

60歳を過ぎたお栄の手に残ったのはやはり絵筆であった――。

北斎の娘 応為(お栄)の晩年と作品

葛飾 応為(かつしか おうい、生没年未詳)は、
江戸時代後期の浮世絵師で、
葛飾北斎の三女。

応為は号(画号)で、名は栄(えい)と言い、
お栄(おえい、阿栄、應栄とも)、栄女(えいじょ)とも記された。

北斎には二人の息子と、三人の娘(一説に四人)がいた。

三女だった応為は、3代目堤等琳の門人・南沢等明に嫁したが、
父譲りの画才と性格から等明の描いた絵の拙い所を指して笑ったため、
離縁されてしまう。

出戻った応為は、晩年の北斎と起居を共にし、
作画を続け、北斎の制作助手も務めたとされている。

応為は不美人で顎が出ていたため、
北斎は「アゴ」と娘を呼んでいたという。

なお、北斎の門人・露木為一による『北斎仮宅写生図』に、
北斎と応為の肖像が描かれている。

(「北斎仮宅之図」 紙本墨画 国立国会図書館所蔵)。

初作は文化7年(1810年)を下らない時期と推定される『狂歌国尽』の挿絵と見られる。

同じく北斎の娘と言われる画人・葛飾辰女は、
手や髪の描き方が酷似し、応為の若い時の画号で、同一人物とする説が有力である。

特に美人画に優れ、
北斎の肉筆美人画の代作をしたともいわれる。

また、
春画・枕絵の作者としても活動し、
葛飾北斎作の春画においても、彩色を担当したとされる。

北斎は
「美人画にかけては応為には敵わない。彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」
と語ったと伝えられている。

同時代人で北斎に私淑していた渓斎英泉も、
自著『旡名翁随筆』(天保4年(1833年)刊)の「葛飾為一系図」で、
「女子栄女、画を善す、父に従いて今専ら絵師となす、名手なり」と評している。

晩年は仏門に帰依し、
安政2-3年(1855 – 1856年)頃、加賀前田家に扶持されて金沢にて没したともされる。

また、北斎没後8年目に当たる安政4年(1857年)に家を出て以来
消息不明になったとも伝えられ、
家出した際の年齢は67であったという。

一方で虚心は、『浮世絵師便覧』で慶応年間まで生きている可能性を示唆しており、
これらを整合させると、
生まれた年は寛政13年(1801年)前後で、慶応年間に没したことになる。

応為の性格は、父の北斎に似る面が多く、
やや慎みに欠いたという。

男のような気質で任侠風を好み、
また衣食の貧しさを苦にすることはなかった。

絵の他にも、占いに凝ってみたり、
茯苓を飲んで女仙人になることに憧れてみたり、
小さな豆人形を作り売りだして小金を儲けるなどしたという。

また応為にも弟子がおり、たいてい商家や武家の娘で、
いわば家庭教師として訪問して絵を教えていたようである。

露木が
「先生に入門して長く画を書いているが、まだうまく描けない」と嘆いていると、
応為が笑って、

「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、
この前なんか腕組みしたかと思うと、
猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。
何事も自分が及ばないといやになる時が上達する時なんだ」と言い、

そばで聞いていた北斎も
「まったくその通り、まったくその通り」と賛同したという。

「応為」の画号は、
北斎が娘を「オーイ、オーイ」と呼んだので、それをそのまま号としたとも、
逆に北斎を「オーイ、オーイ親父ドノ」と大津絵節から取って呼んだからという説や、
或いは北斎の号の一つ「為一」にあやかり、
「為一に応ずる」の意を込めて「応為」と号したとする説もある。

現存する作品は10点前後と非常に少ない。

西洋画法への関心が強く、
誇張した明暗法と細密描写に優れた肉筆画が残る。

木版画も研究者に応為の作と認められているのは、
弘化4年(1847年)刊行の絵本『絵入日用女重宝句』(高井蘭山作)と、
嘉永元年(1848年)刊行の『煎茶手引の種』(山本山主人作)所収の図のみである。

「北斎作」とされる作品の中にも、
実際は応為の作もしくは北斎との共作が相当数あると考えられる。

特に北斎八十歳以降の落款をもつ肉筆画は、
八十を過ぎた老人にしては彩色が若々しく、精緻に過ぎる作品がしばしば見られ、
こうした作品を応為の代筆とする意見もある。

カナダの作家、キャサリン・ゴヴィエによる
応為を主人公にした小説『北斎と応為』(”The Ghost Brush”)は、
この説を踏襲する形で書かれている。

また、
北斎筆とされる春画「絵本ついの雛形」を、応為の筆とする説もある。

葛飾応為の作品

三曲合奏図
ボストン美術館蔵
琴、胡弓、三味線を弾く3人の女性の様子。
今にも音が聞こえてきそうな躍動感が感じられる。
琴を弾く女性の左手の形が、結構ムリした形。
演奏中の勢いがないとこの形にならないのではないか、
激しい演奏を思わされます。
ここに描かれている三人は町娘と芸者と遊女で、
実際にこの身分の違う三者が一緒にいることは在り得ない構図です。
絵の中に遊女という吉原の女の人を描いていますが、
蜘蛛の巣は囚われの身
露は儚い身の上を表わしているそうです。

吉原夜景図
太田記念美術館蔵
夜の吉原の妖しさと艶やさ。
「吉原格子先之図」
緻密な細部描写の見どころは、
格子に隠れてよく見えない遊女たちの顔。
はっきりと描かれるのは奥に座る1人のみで、
よく見ると鼻筋には白のハイライトが、
遊女らしい細部へのこだわりに驚かされます。
この作品には一見応偽の記名がありませんが、
よく見ると、提灯の一部に「応」と「為」の文字を入れ、
さりげなく自分の作品であることを表明しています。

夜桜美人図
メナード美術館蔵
灯籠の光と暗闇、浮びあがる桜と女性
陰影の表現が特徴的
星の色は白い点描に加え、淡い藍や紅を一点二点と描き加え、
夜空の星の明るさの等級の違いを表わすために、
5種類くらいの描き分けが見られます。

唐獅子図

真ん中の獅子は北斎、周りの花は応為の合作
色使いがすごい!
応為は西洋画の影響を受けているのか、光の取り入れ方が独特。
フィルメールやレンブラントは『光の画家』といわれますが、
応為もそう評価されれべきなのではないでしょうか。”

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応為の現存する作品は10点余りと少ない。

ちなみに北斎と応為は片付けが出来なくて、
部屋が散らかったら引っ越しを繰り返していたそうです。
そのため北斎は生涯で93回引っ越しを経験しているそうです。

北斎と応偽の様子がこちら。
北斎の門人・露木為一による『北斎仮宅写生図』
二人の生活ぶりを描いたものだそうです。
北斎は布団に入りながら絵を描いています。

富嶽三十六景の作者葛飾北斎の生涯と西洋に影響を与えたジャポニズム

あとがき

世界的にたくさんの素晴らしい作品を残した葛飾北斎
その娘 応為
血は争えないというか、DNAの恐ろしさを感じる業績

北斎の娘 応為の、父親北斎以上に描くことに囚われた、
強烈な性格を、
宮崎あおいさんがどれくらい表現してくれるかが見どころですね!