お雇い外国人とはどんな人で有名な人は誰がいる?お給料はいくらぐらいで国籍はどこが多い?

豆知識

お雇い外国人(おやといがいこくじん)とは、
幕末から明治にかけて、
欧米の技術・学問・制度を導入して、
「殖産興業」と「富国強兵」を推し進めようとする
政府や府県などによって雇用された外国人のことです。

当時の日本人の中からは得がたい知識・経験・技術を持った人材で、
欧米人だけでなく、若干の中国人やインド人もいました。

官庁の上級顧問だけでなく単純技能者もいて、
お抱え外国人とも呼ばれることもありました。

  

お雇い外国人とはどんな人?

慶応3年10月14日(1867年11月9日)
第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、
大政奉還によって、江戸幕府は終わりを告げました。

翌15日に天皇が奏上を勅許し、
近代日本が始まりました。

NHKの大河ドラマを見てもわかるように、
長い鎖国時代もあって、日本の産業や文化は世界のそれに比べて、
ずいぶん遅れていたのです。

「お雇い外国人」と呼ばれる人々は、
日本の近代化に必要な、
西欧の先進技術や知識を単にもたらしただけではなく、
彼らの日本滞在を通して、日本人に海外の生活習慣を紹介し、
また反対に日本の文化を海外に紹介する役割を果たしました。

江戸時代初期にも、お雇い外国人として、
ヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスなどの例があり、
幕府の外交顧問や技術顧問を務め、
徳川家康の評価を得て厚遇されたようです。

外国人雇用が本格化するのは幕末期で、
欧米諸国から開国と通商の圧力が高まり、
それに対し幕府は、

外交政策顧問として、
オランダ人フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト、

長崎海軍伝習所に
オランダからヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケらの教員、

さらに横須賀造兵廠には
フランスからレオンス・ヴェルニーらの技術者、

燈台建設のために
イギリスからリチャード・ブラントンらの技術者を雇用しました。

明治政府は、
幕府が計画していた鉄道網の建設構想を引き継ぐとともに、
殖産興業を大々的に推進するために工部省を創設し、
そこに大勢の技術系外国人を雇用しました。

幕末期から外国人は 2~3年契約で雇われ、
更新される者もいましたが、順次日本人に取って代わられました。

イギリス人にとってその植民地で長期間仕事をしたり、
あるいは定住することは普通であったのですが、
米国の宣教師で医師のヘボンは、
日本では「雇いYatoi」とは、
短期雇用という位置づけであると述べています。

お雇い外国人で有名な人は誰がいる?

お雇い外国人として雇用された分野と異なる分野で、
功績を残した人物も多いといわれています。

アーネスト・フェノロサは、
政治学や哲学の教授として招かれましたが、
日本美術の再評価においても名が知られています。

ホーレス・ウィルソンは、英語教師として招かれましたが、
この時、
教育の一環として日本人生徒たちに野球を教えた事から、
「日本に野球を伝えた人物」として名を残し、
野球殿堂入りしています。

ウィリアム・ゴーランドは、大阪造幣寮の技師として雇われ、
その分野でも高い評価を持っていたのですが、
他にも、日本の古墳研究や、
日本アルプスの命名者としても名が残っています。

エドワード・B・クラークは、
イギリス人の両親が日本に滞在していた時に横浜で生まれ、
一時期、母国イギリスに留学した時以外は、
死ぬまで日本で生活していた。

さらに例外的に、
ラフカディオ・ハーンやジョサイア・コンドル、
エドウィン・ダンのように日本文化に惹かれて滞在し続け、
日本で妻帯あるいは生涯を終えた人物もいました。

お雇い外国人のお給料はいくらぐらい?

お雇い外国人の報酬は、
当時の日本人の給与体系からするとたしかに高かったが、
イギリスのインド植民地の官吏や技術者と同程度であり、
それを基準にしたと考えられます。

1871年(明治3~4年)の時点で、
太政大臣・三条実美の月俸が800円、
右大臣・岩倉具視が600円であったのに対し、

外国人の最高月俸は、
造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1,045円でした。

その他、
グイド・フルベッキやアルベール・シャルル・デュ・ブスケが600円、

燈明台掛技師長のヘンリー・ブラントンが500円で雇用されており、
1890年(明治23年)までの平均では、
月俸180円とされています。

人選は政府間協定や信用のある機関を通して行われ、
ほとんど皆、真摯に任務を勤めたのですが、
仲間からの推薦や自薦で採用された者のなかには
不埒な者もいたということです。

佐賀の乱から西南戦争に続く緊縮財政のために、
1876年に多くの御雇いが解雇され、
さらに工部大学校からの卒業生や、
海外留学から帰国者が出てくると、
外国人の雇い入れは次第に少なくなっていきました。

その後、こうしたお雇い外国人は、
ほとんどは任期を終えるとともに離日したのですが、
母国に戻らず、
ほかの国に仕事を求め定住する者もいたようです。

お雇い外国人の国籍はどこが多い?

ひと口に「お雇い外国人」とはいうものの、
その国籍や技能は多岐に亘り、
1868年(慶応4年/明治元年)から1889年(明治22年)までに、
日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の者の資料として、
『資料 御雇外国人』『近代日本産業技術の西欧化』がありますが、
これらの資料から2,690人のお雇い外国人の国籍が確認できます。

出身国の内訳は、

イギリス人1,127人、
アメリカ人414人、
フランス人333人、
中国人250人、
ドイツ人215人、
オランダ人99人、
その他252人である。

また期間を1900年までとすると、
イギリス人4,353人、フランス人1,578人、ドイツ人1,223人、
アメリカ人1,213人とされています。

1890年(明治23年)までの雇用先を見ると、
最多数のイギリス人の場合は、政府雇用が54.8 %で、
特に43.4 %が工部省に雇用されていました。

工部省とは、
明治維新政府が工学の知識をひろめ、
各種の工業を勧奨し発展させることを目的に、
1870年(明治3)12月設置した官庁のことです。

明治政府が雇用したお雇い外国人の50.5 %がイギリス人でした。

工部省の明治3年から明治20年までの
お雇い外国人総数256人中238人がイギリス人でした。

大口雇用として、
エドモンド・モレルをはじめとする鉄道建設技術者、

リチャード・ブラントン他の灯台建設技術者、

ヘンリー・ダイアー他の工部大学校教師団、

コリン・マクヴェインの測量技術者があげられます。

アメリカ人の場合は54.6 %が民間で、
教師が多かったようです。

政府雇用は39.0 %で、
文部省が15.5 %、開拓使が11.4 %ですが、
開拓使の外国人の61.6 %が、
ホーレス・ケプロンやウィリアム・スミス・クラークなど、
アメリカ人でした。

フランス人の場合は48.8 %が軍の雇用で、
特に陸軍雇用の87.2 %はフランス人でした。

幕府はフランス軍事顧問団を招いて陸軍の近代化を図りましたが、
明治政府もフランス式の軍制を引き継ぎ、
2回の軍事顧問団を招聘しています。

のちに軍制をドイツ式に転換したのは、
1885年(明治18年)に、
クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル少佐を、
陸軍大学校教官に任じてからです。

また、数は少ないのですが司法省に雇用され、
不平等条約撤廃に功績のあった
ギュスターヴ・エミール・ボアソナードや、
左院でフランス法の翻訳に携わった
アルベール・シャルル・デュ・ブスケなど、
法律分野で活躍した人物もいます。

ドイツ人の場合は政府雇用が62.0 %であり、
特に文部省 (31.0 %)、
工部省 (9.5 %)、
内務省 (9.2 %) が目立ちます。

ほかには、エルヴィン・フォン・ベルツをはじめとする医師や、
地質学のハインリッヒ・エドムント・ナウマンなどが活躍しました。

オランダ人の場合、民間での雇用が48.5 %ですが、
海運が盛んな国であったことから、
船員として働くものが多かったのです。

幕府は1855年(安政2年)
長崎海軍伝習所を開設し、

オランダから、
ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケらを招いたため、
海軍の黎明期にはオランダ人が指導の中心となりましたが、
幕末にイギリスからトレーシー顧問団が招聘され、
(明治維新の混乱で教育は実施されず)、

さらに明治新政府に代わってからは、
1873年(明治6年)にダグラス顧問団による教育が実施され、
帝国海軍はイギリス式に変わっています。

他に土木の河川技術方面で、
オランダの治水技術が関係者に高く評価された背景があり、
ヨハニス・デ・レーケら多くの人材が雇用されたとされていますが、
ボードウィン博士兄弟との縁故による斡旋という説もあります。

イタリア人は、その人数こそ多くなかったものの、
工部美術学校にアントニオ・フォンタネージらが雇用されました。

またエドアルド・キヨッソーネが様々な分野で貢献しました。

あとがき

『御雇い外国人』の「御雇」と御の字が付いたのは、
御上(おかみ)すなわち政府が雇ったという意味です。

明治政府が雇用した官雇外国人にならって、
民間でも学校や会社に私雇外国人を多く採用しました。

在外公館で雇用されていた者や
外国人居留地の警備に当たった者なども含まれますが、
一般的には、
欧米から技術や知識を学ぶために招いた人物を指します。

お雇い外国人の中には日本に墓所が残されている者もいます。

ラフカディオ・ハーンの墓所は、
島根県松江市の重要な観光資源にも位置付けられています。

アーネスト・フェノロサはロンドン滞在中に亡くなりましたが、
滋賀県 三井寺の園城寺に埋葬されました。

東京都にある青山霊園の青山外国人墓地では、
関係者の所在が不明となり、
管理料(2005年現在、年590円)が、
長年にわたって未納のままのものがあるようです。

通例であれば無縁仏として集合墳墓に改葬されるところですが、
青山霊園の場合、
2006(平成18)年度に、
東京都側が78基にのぼる管理費滞納お雇い外国人墓所を
文化史的に再評価し史跡として保護する方針であることが
2005年(平成17年)2月18日の読売新聞で報じられました。