世界遺産姫路城を築城したのは誰?城主は誰で刑部姫は妖怪なのか?

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ユネスコの世界文化遺産に登録され、
日本100名城にも選定されている兵庫県姫路市の国宝「姫路城」、

とても美しいですね、

姫路城は、シラサギが羽を広げたような優美な姿から
「白鷺城」とも呼ばれています。

時代劇の撮影のもよくつかわれるので、
江戸城と勘違いされる方もおられるほど、
日本で一番有名なお城ではないでしょうか。

そんな姫路城ですが、
築城した人や城主は誰なのか、
あまり知られていません。

長い歴史の中で姫路城を守ってきた、
歴代城主をご紹介します。

  

世界遺産姫路城を築城したのは誰?

2009年から2015年まで行われていた天守閣の修理工事が完了し、
白く美しい姿が蘇った姫路城。

太陽の光を浴びて燦然と輝く姿は、
「白鷺城」と呼ばれるにふさわしい優美さを備えています。

外国人観光客も多い日本屈指の名城ですが、
姫路城って誰が建てたお城なのかよく知らない、
という人も多いのではないでしょうか。

1333年(元弘3年)、
鎌倉幕府倒幕のために立ち上がった後醍醐天皇を中心とした勢力が台頭。

各地で挙兵の声が上がります。

播磨国(はりまのくに・現在の兵庫県南西部)の守護を務めていた、
赤松則村も兵を集め上洛(地方から京都へ行くこと)。

上洛途中にあった姫山の寺に拠点を置き、砦を築きます。

それから10年ほど経った1346年、
今度は南北朝の争乱に参戦するべく挙兵した赤松氏が、
再び姫山の砦に集結。

砦を改修し、本格的な城を築きます。

これが姫路城の始まり。

築城したのは、
赤松則村の息子の赤松貞範(あかまつさだのり)です。

赤松貞範は父とともに参戦した鎌倉幕府倒幕の際に数々の功績を挙げ、
播磨国の所領を与えられていました。

当時はまだ「姫路」という呼び名はなく、
「姫山城」と呼ばれていました。

本格的な城、と申しましたが、
現在のような大きな天守閣を持つ城ではなく

鎌倉時代から室町時代にかけてよく見られるような、
「土塁や曲輪を連ね山の地形を活かした戦うための山城」
であったものと思われます。

赤松貞範は1349年に、
別の城(庄山城)に移るまでおよそ3年ほどの間、
この城の城主を務めました。

以後100年ほどの間、
この城は赤松氏の一族にあたる小寺氏によって守られていきます。

世界遺産姫路城の城主は誰?

元弘三年(1333)頃、
当時は城ではなく、
赤松則村(のりむら)が、
ちょっとした砦を姫山というところ築いたことから始まったとお話しました。

その後、則村の次男・貞範が城に改修しますが、
この時も文献には姫路城ではなく、
姫山の城という名で出てくるようです。

そして赤松氏の分家で重臣の小寺氏が姫山の城を治めましたが、
小寺氏は家臣の黒田氏に姫山の城を任せ、
平地の御着に城を築いて移ります。

やがて戦国時代になります。

東から織田氏の勢力が伸びてくると、
当時の姫山の城主・黒田氏は羽柴秀吉に城をそっくりそのまま献上し、
秀吉時代に三層の天守が築かれたようです。

その後、関ヶ原の戦いの後、
池田輝政が三河国吉田(現在の愛知県豊橋市)から入城し、
大改修して五層の天守を築きます。

姫路城には最初から天守があったワケではありません。

以後、拡張や増築などが繰り返され現在に至ります。

★歴代城主と主な出来事をまとめてみました。

・元弘三年頃(1333)
赤松則村:姫山に城柵をめぐらして砦みたいなものを築く

・正平元年頃(1346)
赤松貞則:貞村の次男・貞範が姫山に城みたいなものを築城

・正平四年頃(1349)
小寺頼季:貞範は庄山城を築いて移り、小寺氏が守る

・嘉吉元年(1441)
山名持豊:山名氏、赤松氏を滅ぼして播磨守護となる

・応仁元年(1467)
赤松政則、赤松氏復活。 この時、本丸、鶴見丸、亀居丸を築く

・文明元年(1469)
小寺豊職:赤松政則は置塩城を築き移ることになったので小寺氏が守る

・天文十四(1545)
黒田重隆:小寺氏は家臣の黒田氏に姫路を任せ御着城に移る

・天文十五(1546)
この年に孝高(官兵衛)生まれる

・永禄十年(1567)
黒田孝高:高(官兵衛)が黒田氏の当主になる

・天正八年(1580)
羽柴秀吉:織田信長から中国地方制覇の命を受けた羽柴秀吉に
孝高は姫路城を献上する

・天正十一年(1583)
羽柴秀長:秀吉は大阪城を築いて移ったので弟の秀長が在城

・文禄四年(1595)
木下家定:秀長は大和郡山城に移ったので、
秀吉正室・北政所の兄である木下家定が入城

・慶長五年(1600)
池田輝政:関ヶ原合戦の戦功で池田輝政が三河国吉田
(現在の愛知県豊橋市)より姫路に移る

・慶長十八年(1613)
池田利隆:輝政が病死。長男の利隆が跡を継ぐ

・元和二年(1616)
池田光政:光政が父・利隆の跡を継ぐ

・元和三年(1617)
本多忠政:光政は因幡鳥取に遺封。忠政が伊勢桑名より入城

・寛永十六年(1639)
松平忠明:本多氏は大和郡山に移封。松平氏が入城

・慶安元年(1648)
松平直基:忠明の子・忠弘が出羽山形に転封。松平直基が城主に。

・慶安二年(1649)
榊原忠次:榊原氏が陸奥白河より入封

・寛延二年(1749)
酒井忠恭:酒井氏が上野前橋より入封。
これ以後、明治維新まで酒井氏が姫路城主となる

・治元年(1868)
酒井忠邦:この年、明治維新。翌年に版籍奉還となる

・昭和三十一年(1956)
大天守などの解体修理を行う

・平成五年(1993)
ユネスコ世界文化遺産に指定される

・平成二十七年(2015)
およそ五年に及ぶ平成の大改修が終了

こうやって見てみると、
姫路城にはいろんな出来事があり、
城主もいろんな人に代わっていることがわかりますね。

世界遺産姫路城の刑部姫は妖怪なのか?

姫路城大天守に神棚みたいなものがあります。

これは姫路城大天守に住む刑部(おさかべ)姫を祀ったものです。

では刑部姫とは?

関ヶ原合戦後、
池田輝政が姫路城に入城したばかりの頃。

この時、姫路城内で奇怪な現象が連続しました。

例えば…

・誰もいないはずの天守に明かりが点る

・鳴き声がする

・夜な夜な悪鬼や大入道が現れる

・『城内に八天塔を作らなければ呪い殺すぞ』という怪文書が出回る

などなど。

しかもちょうどその頃、輝政が病に倒れてしまい、
試しに八天塔を建ててみると病が治りました。

病が治った夜。

輝政の枕元に姫路城に古くから住み着いていた刑部姫という妖怪が、
十二単を着た美女の姿で現れ、
輝政は初めて彼女の存在を知りますが、
なにせ相手は人間ではありません。

輝政は一年に一度、
彼女の要望を聞くので家臣の前に現れないでほしいと頼みます。

すると刑部姫は新築した大天守に移り住むことを条件に承諾したとか。

以後、
姫路城の歴代城主は年に一度、
刑部姫との会談を行う様になったそうです。

この刑部姫、
もともとは羽柴秀吉が姫路城主だった頃、
秀吉が誤って祠を壊してしまったために現れる様になったそうですが、
秀吉は徹底して無視を決め込んで相手にしなかったのだとか。

最近の研究では、
刑部姫は姫路城がある姫山に住む老狐ではなかったのか?
とされています。

ちなみに逸話ですが、
あの剣豪の宮本武蔵も刑部姫と対決していますが、
郷義弘という銘刀を与えられて懐柔されています。

今でも大天守内の神棚に祀られている刑部姫。

もしかすると、
今でも姫路城のどこかに住んでいるのかもしれませんね。

あとがき

姫路城自体があまりにも有名すぎて、
誰が建てた城なのか、
今まで意識したことがありませんでした。

応仁の乱の中心となった一族や、
天下人、徳川の幕臣など、
歴史に名を遺す有名人たちが城主を務めていたことは驚きです。

また、あの優美で壮大な天守閣は、
長年姫路の人々によって守られ続けてきた証なのだということも分かって、
姫路城のことがますます好きになりました。

また機会があったら、姫路城下を訪れてみたいと思います。