神田明神パワースポットの属性は徳川家康も祈願した勝運と神田祭のご利益

神社仏閣

神田明神といえば『神田祭』と『銭形平次』が有名ですが、
神田明神がパワースポットと言われる理由は、
江戸幕府をひらいた徳川家康だったのですね。

家康に勝運をもたらした、
パワースポット神田神社との由縁や歴史と、
ご利益あらたかな数々のお守りをご紹介します。

神田という土地柄ならではのユニークなお守りがあります。

  

神田明神パワースポットの属性は徳川家康も祈願した勝運

神田明神の通称で知られる神田神社は、千三百年近い歴史がある古社です。

神田明神がある外神田界隈は、
高層ビル群と戦前からの古い建物とが同居する街です。

名だたる企業が犇めく大手町や丸の内、老舗の店舗が軒を連ねる日本橋、
アニメファンのワンダーランドである秋葉原などに囲まれ、
下町らしい雑多な活気にあふれています。

普段からビジネスマンや近所の人々の姿をよく見かけますが、
お正月には、それほど広くない境内がギュウギュウ詰めの大賑わいになります。

場所がら、社員総出で初詣する企業が多いことでも有名ですが、
企業が初詣する習慣は、実は神田明神を中心に広がったものだそうです。

神田明神の創建は天平二年(730年)ですが、
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、
神田神社で徳川家康公は合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。

すると、
9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。

これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として、
絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。

その後、江戸幕府の引き立てもあり、江戸総鎮守として、
広く信仰を集めるようになり、
今も神田神社は、東京の都心にある百八町会の総氏神様です。

御祭神は大黒様、えびす様、将門様で、
それぞれ縁結び、商売繁盛、厄除け開運が主なご利益です。


軒が密集した江戸の町は、
『火事と喧嘩は江戸の華』といわれるくらい火事の多いところでしたが、
この神田神社は、火災から何度も蘇えった神社です、

最初は明暦三年(1657年)で、
『振り袖火事』と呼ばれる江戸の大半が被災した大火で炎上しました。

この時は、四代将軍の徳川家綱が復活させました。

また、元禄十六年(1703年)の、
『水戸様火事』のときは、五代将軍の綱吉が再興し、
大正十二年(1923年)には、関東大震災で、またもや焼失したのです。

そのあと神田神社は社殿を鉄筋コンクリート造りにしたので、
その後の昭和二十年(1945年)の東京大空襲では、
難を逃れることができました。

つまり、
神田神社は幾多の厄災を生き延びてきた神社といえます。

ちなみに、コンクリート造りの社殿というのは、
おそらく神田神社が日本初で、登録有形文化財に指定されています。

また、社殿の裏手には摂社がいくつかありますが、
そのうちのひとつが江戸最古といわれている江戸神社です。

そこには江戸庶民のヒーローの碑があります。

といっても、
そのヒーローとは野村胡堂の小説『銭形平次捕物控』の主人公、
目明しの銭形平次です。

この小説はテレビドラマにも映画にもなりましたが、
大川橋蔵主演のテレビドラマは十八年間にわたり
計八八八回放送されるというギネス記録を持つ人気番組でした。

八百八町のヒーロー物語が、放送八八八回という、
八並びも粋な偶然かも知れません。

この碑は放送途中の昭和四十五年(1970年)に、
映画界や出版界有志によって建立されたもので、
平次の隣には、子分の八五郎の小さな碑も寄り添っています。

パワースポット神田明神の歴史

江戸と東京が交差する古社 神田神社の歴史は、
神田明神の社伝によると、神田神社は天平二年(730年)に、
出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により、
武蔵国豊島郡芝崎村
(現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。

その後、天慶の乱で活躍された平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で、
天変地異が頻発し、
それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、
時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、
さらに延慶二年(1309年)神田神社に奉祀されました。

戦国時代になると、
太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。

江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、
元和二年(1616年)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、
幕府により社殿が造営されました。

以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、
幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。

明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、
東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。

明治七年(1874年)には、
はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が、
親しく御参拝になり御幣物を献じられました。

大正十二年(1923年)、
未曾有の関東大震災により、
江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいましたが、
氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、
昭和九年(1934年)に当時としては画期的な、
鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。

昭和十年代後半より、日本は第二次世界大戦へと突入し、
東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。

神田神社の境内も多くの建造物がほとんど焼けてしまいましたが、
耐火構造の社殿のみ、わずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。

戦後以降、結婚式場・明神会館など次々と境内の建造物が再建されていき、
昭和五十一年(1976年)に、檜木造の隨神門が再建されるに及び、
江戸時代に負けない神社の姿を取り戻しました。

さらに「平成の御造替事業」が行なわれ、
社殿の修復・塗替えや資料館の創建など境内整備が進められました。

平成十七年(2005年)、
神札授与所・参拝者控え所・休憩所を兼ね備えた鳳凰殿、
氏子英霊をお祀りする祖霊社が建立されるなど、
さらに境内整備が進められております。

神田明神パワースポットの商売繁盛と縁結びのご利益は?

神田明神が商売繁盛のパワースポットといわれるのは、
徳川家康公が、関ケ原の合戦に臨むとき、
神田明神の『勝守』を授かり、勝利を得たことが起源となっています。

勝運のあるこの御守りは、商売の取引や勝負事、入試などに、
霊験あらたかとされることから、神田明神がパワースポットといわれるのです。

また、ソフトウェアやIT関連の会社からの崇敬が篤いことから、
『IT情報安全守護』のお守りも人気です。

これは秋葉原の電気店街を氏子にもつ神田神社独自の、
コンピューターや携帯電話のお守りで、
パソコンやスマートフォンなどのIT機器を、
ウィルスや迷惑メールから守ってくださるのものです。

こち亀コラボのお守りと絵馬を授与
こち亀絵巻奉納を記念して、
こち亀とコラボしたお守り、絵馬を授与されています。

恋愛成就・商売繁盛・神田祭・あかりちゃんの
LINEスタンプもあります。

神田明神にお祀りされている御神体は、
大黒様、えびす様、将門様の三柱です。

・大黒様
一之宮 大己貴命(おおなむちのみこと)は、大黒様のことで、
縁結びの神様として、天平2年(730)に、鎮座されました。

国土開発、殖産、医薬・医療などに大きな力を発揮され、
国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されています。

また大黒様は、
祖霊のいらっしゃる世界・幽冥(かくりよ)を守護する神とも言われています。

大国主命(おおくにぬしのみこと)という別名もお持ちで、
島根県の古社・出雲大社のご祭神でもあるのです。

・えびす様
二之宮 少彦名命(すくなひこなのみこと)
えびす様は、商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様です。

日本に最初にお生まれになった、
神様のお一人・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)のお子様で、
大海の彼方・常世(とこよ)の国よりいらっしゃり、
手のひらに乗るほどの小さなお姿ながら知恵に優れ、
だいこく様とともに日本の国づくりをなされました。

・将門様
三之宮 平将門命(たいらのまさかどのみこと)
将門様は、除災厄除の神様で、延慶2年(1309)にご奉祀されました。

平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、
関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったお方です。

明治7年(1874)に一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、
昭和59年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっております。

東京都千代田区大手町・将門塚(東京都指定文化財)には、
将門公の御首をお祀りしております。


神田明神のお祭り『神田祭』は、山王祭、深川祭とともに、
江戸三大祭りの一つで、
京都の祇園祭、大阪の天神祭りとともに、
日本三大祭りの一つでもあるのです。

神田明神(神田神社)

〒101-0021 東京都千代田区外神田2-16-2

URL http://www.kandamyoujin.or.jp
  http://www.kandamyoujin.jp
電話 03-3254-0753

あとがき

神田祭の威勢のいい掛け声!
江戸っ子の心意気溢れるお祭りですね。
『てやんでぇ~!』『べらんめえ~!』
意味がわかりませんが、勇ましくていいですね!