厳島神社の祭り 管絃祭
2017年は8月8日に催されます
厳島神社は海の上に立っていて
潮が満ちるとまるで海に浮かんでいるように見え
山々の緑や海の青 本殿の朱とのコントラストが美しく
まるで竜宮城のようです
厳島神社のある宮島は紅葉が美しいことでも有名で
「安芸の宮島」と呼ばれ
日本三景の一つとなっています
厳島神社は
平成8年12月に世界文化遺産に正式に登録されました
海上に建ち並ぶ建造物群と背後の弥山原始林とが一体となった
独創的な神社建築であること
建造物の多くが平安時代の寝殿造りの特徴をもつ建築であることなどが評価されたからです
厳島神社の祭り 管絃祭とは
厳島神社の本殿で発輦祭(はつれんさい)が執り行われ
大鳥居沖に停泊する御鳳輦(ごほうれん)を遷します
そして御祭神を乗せた御座船が管絃を奏でながら
宮島の厳島神社と広島の地御前神社まで渡ります
旧暦6月17日に催される管絃祭(別名で十七夜祭)は
船神事であることから
潮の干満を考慮し大潮の日に執り行われます
大阪の「天神祭」
松江の「ホーランエンヤ」と並び
日本三大船神事のひとつの管絃祭では
年に一日だけの特別な日に厳かに神事が執り行われます
御座船は潮が満ち潮に変わるころに宮島を出発し
1時間程で地御前神社沖合いに到着します
地御前神社周辺には多くの屋台が出店され
お祭りの雰囲気をさらに盛り上げます
日が暮れますと御座船に提灯に火が点され
かがり火が炊かれ 御座船の到着を祝い祝詞や雅楽の演奏が続きます
東の空に満月が昇りますと御座船は宮島に戻り
船頭への大きな拍手と労いの言葉が飛び交い
祭りのクライマックスを迎えます
厳島神社に帰ってくるのは24時頃で
本殿に御祭神が戻りますが
この時に御祭神に触ると御利益にあずかれると言い伝えがあり
多くの人が御祭神に集まります
厳島神社の祭り 管絃祭の歴史
厳島神社は 推古天皇元年(593)に
佐伯鞍職(さえきくらもと)により創建されたと伝えられています
社殿は 災害等により何度か立て替えられていますが
平清盛が造営した当時の建築様式を忠実に守って再建されています
宮島管絃祭は世界遺産に登録された厳島神社で
毎年旧暦6月17日大潮の日に執り行われる海上渡御を目的とした祭りです
管絃祭の歴史は平安時代に貴族の「管絃遊び」を
海上渡御として平清盛が信仰する厳島神社で
神事として行うようになりました
厳島神社を崇敬し今の姿に造営した平清盛が始めたとされます
都で行われていた管絃遊び(池や川に船を浮かべ管絃を合奏する優雅な遊び)を
厳島神社の祀神を慰める神事として執り行うようになりました
平安時代
厳島は島全体が神とされ 人が住むことが許されませんでした
そのため
対岸の地御前神社から厳島神社まで
管絃船で管絃を合奏する神事を行っていましたが
鎌倉時代以降
島内に人が住むようになってからは
厳島神社から管絃船が出御し
地御前神社を経由し還御する現在の姿となりました
厳島神社の祭り 管絃祭の御利益
厳島神社の祭り 管絃祭は海の祭りで
日本三大船神事のひとつに名を連れることからわかりますように
船を使った祭りです
宮島は「厳島」ともよばれますが
これは「神を斎(いつ)き祀る島」という意味で
「島全体が御神体」となっています
その神聖な”厳島”に位置する「世界遺産・厳島神社」は
推古天皇の御代に「宗像三女神(むなかたさんじょしん)」を祀って
建立された神社です
平安末期には平家一門の信仰を受け 氏神的存在ともなりました
以後も武家の信仰を厚く受け
源頼朝・毛利元就・豊臣秀吉などの庇護を受けます
ただし
平氏が滅んで「源頼朝(源氏)」が台頭した鎌倉期には
辛(かろ)うじて庇護は受けていたものの
以前ほどの盛大さはなく少しずつ衰えて行くことになります
この厳島神社のご利益で一番有名なのは「交通安全」です
平清盛は
父親に次いで「安芸守」に任じられ
平家二代に渡って瀬戸内海の制海権を得ることに成功します
清盛は密かに中国の「宋(そう)」と通じて貿易を行っています
その際
朝鮮とも貿易を行っていることから
海の神と云われた宗像三女神を信仰し 多大な崇敬を寄せることになります
その後
貿易は見事に成功し財力を得ることに成功し
果ては平氏の繁栄にもつながり
ついには日本を牛耳るほどの一大勢力になります
厳島神社は以上のような由来を持つありがたい神様であることから
現在でも清盛の繁栄にアヤかり
「水災消除(海上交通安全)のご利益がある」とされています
さらにあまり知られてない厳島神社のもう1つのご利益があります
平家一門の繁栄や
毛利元就のが厳島の戦いで勝利をおさめ安芸国を支配し
西国の覇者となったこと
豊臣秀吉が天下統一の目前に厳島神社を参詣したことから
などから
「開運」や「必勝祈願」のご利益もあると云われています
厳島神社 宮島土産 しゃもじの起源と由来
厳島神社(安芸の宮島)へ訪れた記念に
必ずと言って良いほどを買って帰るお土産があります
そのお土産とは 多くの方がご存知の「しゃもじ」です
宮島の商店街へ出向くと土産物店が立ち並び
どの土産物店を見てもほとんどと言って良いほど
「墨書きされた木製のしゃもじ」が販売されています
ではいったい何故
宮島ではこれほど「しゃもじ」が多いのでしょうか?
宮島の土産店に「しゃもじ」が多い理由や
宮島の「しゃもじ」の歴史や由来・ご利益について説明します
宮島の伝統工芸品の杓文字(しゃもじ)ですが
誰が作ったか御存知ですか?
実は「しゃもじ」にはこんなお話があるんです
その昔
1789年~1801年(寛政年間/江戸時代)の頃
宮島の「光明院(こうみょういん)」に
「誓信(せいしん)」という修行僧がいました
光明院とは厳島神社の近辺にある寺院で「五重塔」がある寺院です
その光明院の修行僧である誓信が
厳島神社を参拝する参拝者にこれといったお土産物がなかったため
島民に木工品の作り方を教えたそうです
ある夜誓真さんが弁財天様の夢を見て
持っていた琵琶の形をヒントに杓文字を作られたと言われています
「厳島・弁財天」が手に持つ「琵琶(びわ)」と形状が似た
「しゃもじ」を御山の神木で作り
それを宮島参拝のお土産として売り出すことを島民に進めたことが始まりです
こうして作られた木工品は旅人に喜ばれ
その中でも 杓文字作りが盛んになったそうです
この御神木の杓子で御飯を頂くと
ご神徳にあやかって「福運をまねく」という誓真の教えと共に
「宮島杓子」の名声は宮島中に広まって行くことになります
やがて
誓真の教えは日本中にまで広まり
縁起物として「しゃもじ」が売れ始めると
宮島には
「しゃもじ」の生産を中心として多くの人々が集まるようになってきました
こうして「しゃもじを作る職人」
「作った”しゃもじ”を販売店に卸す問屋」
「問屋から仕入れた”しゃもじ”を販売する土産物屋」といった
一大産業へと発展し
「しゃもじ作り」は宮島の産業となり定着して行くことになります
明治時代に入り
日清・日露戦争が勃発しましたが
その際には「飯取る=敵を召し取る」という語呂のもと
縁起物としてより一層、有名になったそうです
そういった経緯から
現在では「必勝」「商売繁盛」などの文字が染め抜かれた
「飾りしゃもじ」が工芸品として制作されています
「しゃもじ」の歴史は古く
弥生時代の遺構から「しゃもじ」が土器などと一緒に出土しているそうです
つまり「しゃもじ」は古代文明の時代から存在しており
この頃から「炊き上げた米」をスクい上げるといった用途に使われていたことになります
今でも お料理屋さんの厨房などで“ミヤジマ”と言えば
ご飯をよそう時のおしゃもじの事を指します
では
「しゃもじ」と言う言葉はいったい誰が考案したのでしょうか?
実は「しゃもじ」の言葉の起源は定かではありませんが
室町時代の文献に「杓子(しゃくし)」と言う記述が残っており
この杓子の意味合いとは
「しゃもじ」と似ている形状の先端に皿が付いた道具のことを
「杓子(しゃくし)」と呼称していたようです
その後
時代を経る過程において「杓子」がナマって行き
やがて「しゃもじ」と言う言葉が生まれたようです
「しゃもじ」が名産品となった当時の宮島の活況ぶりを見て
時の「内閣総理大臣・大隈重信(おおくま しげのぶ)」は
「是れ(これ)天下の富をスクい取るものなり」と公言しています
春や夏の高校野球をテレビ中継で見ていると
広島県の甲子園球児を応援する際に
しゃもじを叩いて応援する光景がみられるのも
こういった由来があるからですね
そして宮島の名物
広島のお土産と言えば もうひとつ「もみじまんじゅう」が有名です
そのもみじまんじゅうが誕生した由来は・・・・
それは初代内閣総理大臣の伊藤博文の言葉がきっかけでした
伊藤博文が 紅葉谷公園の茶屋で休んでいた時に
お茶を出してくれた茶屋の若い娘の手を見て
「この紅葉のような可愛い手を食べてしまいたい」と
比喩をした言葉を聞いた菓子職人が
もみじの形をヒントに まんじゅうを作ったのが
「もみじまんじゅう」誕生のきっかけだったのだそうです
まとめ
平安時代から引き継がれている 厳島神社の荘厳なる姿は
思わず息をのみ 言葉を失います
世界遺産にも登録された 厳島神社
日本三景の一つ 安芸の宮島
そして
日本三大船神事のひとつの管絃祭は
ぜひ一度訪れたい祭りの一つとして人気があり
厳島神社・安芸の宮島の名物『あなご飯』は
グルメの間でも絶品と評判です