京のかたな特別展2018が開催されます。
匠のわざと雅のこころ 日本の名刀が一堂に集まり、
まさに 刀剣乱舞!
京のかたな特別展では、名刀の魅力とともに、
日本刀の深い部分を発見することができます。
日本固有の刀剣である日本刀と刀鍛冶、
刀工らに与えられた特別な地位は、
後鳥羽天皇に起きた史上初の大事件が絡んでいたのです。
そんな天皇の苦悩が名刀を生んだとされる事件とは?
平安時代から多くの刀工が工房を構えた京都
京都で作られた刀剣は最上級の格式を誇り、
江戸時代以降は大名間で贈答品として珍重されてきました。
現存する京都の、山城系鍛冶の刀のうち、
国宝指定のほぼ全件のほか、
酒井抱一など、画業の傍ら作刀を行った絵師らの刀も出展されています。
刀工が京都の文化に与えた役割についても探っていきます。
京のかたな特別展2018 京都国立博物館 開催案内
【展覧会名】
特別展 京(みやこ)のかたな 匠のわざと雅のこころ
https://katana2018.jp/
【会期】
2018(平成30)年9月29日(土)~ 11月25日(日)
【会場】
京都国立博物館 平成知新館
〒605-0931 京都市東山区茶屋町527
075-525-2473(テレホンサービス)
【休館日】
月曜日
※ただし10月8日(月・休)は開館、翌10月9日(火)は休館
【開館時間】
火~木・日曜日:午前9時30分~午後6時(入館は午後5時30分まで)
金・土曜日:午前9時30分~午後8時(入館は午後7時30分まで)
【観覧料】
一般 1,500円(1,300円)
大学生 1,200円(1,000円)
高校生 700円(500円)
( )内は前売りおよび20名以上の団体料金
中学生以下は無料です。
障害者手帳等をご提示の方とその介護者1名は、観覧料が無料になります。
身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳、戦傷病者手帳、被爆者健康手帳
大学生・高校生の方は学生証をご提示ください。
キャンパスメンバーズは、学生証または教職員証をご提示いただくと、
各種通常料金より500円引きとなります。
【交通アクセス】
JRをご利用の場合
JR京都駅下車、
京都駅前D1のりばから市バス100号、D2のりばから市バス206・208号系統にて
博物館・三十三間堂前下車、徒歩すぐ
JR京都駅下車、
京都駅八条口のりばからプリンセスラインバス(京都女子大学前行き)にて
東山七条下車、徒歩1分
JR京都駅から
JR奈良線にて東福寺駅下車、京阪電車にて七条駅下車、東へ徒歩7分
JR京都駅下車、七条通を東へ徒歩20分
近鉄をご利用の場合
丹波橋駅下車、京阪電車丹波橋駅から七条駅下車、東へ徒歩7分
京阪電車をご利用の場合
七条駅下車、東へ徒歩7分
阪急電車をご利用の場合
河原町駅下車、京阪電車祇園四条駅から七条駅下車、東へ徒歩7分
または、
河原町駅下車、四条河原町から市バス207号系統にて東山七条下車、徒歩3分
河原町駅下車、
四条河原町からプリンセスラインバス(京都女子大学前行き)にて
東山七条下車、徒歩1分
京のかたな特別展 名刀と刀鍛冶の歴史
日本刀様式の刀剣がいつ誕生したのか、
厳密には特定できないようです。
伝わるところによると、平安時代末期の十二世紀には、
武士の台頭とともに、日本刀の出現とには密接な関係があり、
都である京都の刀剣の系譜をひも解けば、その歴史も見えてくるようです。
刀というものが出現して間もない平安末期、
時はまさに“源平の争乱”による激動の時代でした。
そんな時、刀剣とともに、
作り手である刀工の地位向上に大きくかかわる出来事が起こったのです。
それは、後鳥羽天皇の践祚に起因します。
安徳天皇が壇ノ浦の戦いで、
天皇家に代々伝わる『三種の神器』とともに入水してしまいます。
そのため、三種の神器であった『草薙剣』は見つかることなく、
弟の後鳥羽天皇は、
史上初めて皇位継承の象徴である『三種の神器』が無いまま帝の座に就きます。
有職故事を何よりの行動規範とする貴族社会において、
これは絶好の攻撃材料となり得ます。
何かあった時に、
「三種の神器がそろわずに即位したから徳がなかったのだ!」と、なりかねません。
後鳥羽天皇が後に“承久の乱”を起こすなど、
強権的だったのもその反動といわれています。
天皇は単なる個人的な趣味ではなく、
政治的な必要性で、自ら刀剣を作るに至ったと考えられます。
後鳥羽天皇による“作刀説”は、
承久の乱について書かれた江戸時代の軍記物『承久記』に、
記されていたことに由来しています。
承久記は、今でいうならライトノベル、娯楽性の高い歴史物の小説ですので、
書かれていることのすべてが史実ではないようです。
承久記には『君御手づから焼せ給わりけり』と、
天皇みずから鍛刀して作ったとあるのですが、
おそらくそれは伝承ではないかと思われます。
真実はどうであったとしても、
世の中からそう信じられていたという、解釈こそが歴史にとっては重要なところです。
天皇が作刀するにあたり、
刀鍛冶は天皇と接する必要がありました。
当然、庶民が天皇に拝謁することなど叶うわけなく、
そこで、単なる技能民だった刀工に、貴族の官職が与えられたのです。
前例主義だった時代、
このようにして刀工は揺るぎない立ち位置を獲得し、
支配階級との繋がりを持つようになったのです。
後醍醐天皇みずからが作刀されたとされる刀が『菊御作』で、
作刀にあたり、月番で山城や備中から名工を呼び、相槌を務めさせました。
この『御番鍛冶』を務めた国友や国安らは、「粟田口派」として、
京刀の典型を作り、後世に大きな影響を与えることとなります。
国友や国安ら名工の一派は、後世においても活躍することになるのですが、
彼らは京都の粟田口周辺に居住していたことから『粟田口派』と呼ばれました。
『太刀 銘則国』は、国友の子である“則国”による名刀で、
細身で鋒の先が伏さり気味という京刀の特徴をよく示しています。
この『貴人が刀を打つ』という文化は、脈々と受け継がれることになります。
姫路藩酒井家では、歴代藩主が刀を手がけ、
藩主・忠以(ただざね)の弟で、
琳派の絵師としても知られる 酒井抱一が打ったという刀も現存しています。
徳川慶喜の父である水戸藩主・水戸斉昭や、
明治期には、有栖川宮威仁親王も自ら作刀しました。
これまで刀の世界では、歴史的由来は二の次で、
あくまでも美術品としての名品が讃えられてきましたが、
刀が日本文化にどのような影響を与えてきたのか、
文化史的な側面から見ると、また違った魅力を感じることができます。
京のかたな特別展 名刀と刀工が京都の文化に与えた役割
実は日本刀に関して、史料があまりにも少なく、
研究者の数も少ないので、謎とされる部分が多いのです。
たとえば仏教美術と刀剣とを比べたら、その研究には大きな差があります。
現存する最古の刀剣書『観智院本銘尽』には、
平安中期にあたる一条天皇の時代に、多くの刀工の名が挙げられていますが、
確実に十一世紀以前に遡れる日本刀様式の刀剣は残っていません。
名前の分かる、山城最古の刀工が『三條宗近』ですので、
それゆえ宗近は『山城鍛冶の祖』と称されているのです。
日本刀が出現して以来、
常に最上級の格式を誇っているのは京都です。
後鳥羽天皇によって刀工の地位は向上し、
御番鍛冶をしていた京都の粟田口派の登場で、
山城鍛冶は一つの到達点にたどり着きます。
一方、日本最大規模の刀剣産地・備前は、
刀の原料となる砂鉄を多く産出したことから、日本刀の生産が盛んになります。
京都の刀鍛冶が、オーダーメイドなのに対して、
備前の刀鍛冶は、一般から高級なものまで、量産とまではいかないにしても、
販路も最大級だったのです。
出来の良さや、作者のネームバリュー、来歴やエピソードを含め、
総合的な評価で刀の価値は決まるようです。
歴史的著名人が作刀したからといって、
価値が上がるというものではないのです。
これは、刀剣の需要層が幅広く、
モノとしてのできの良し悪しに重点を置く人もいれば、
歴史的・資料的な部分を重視する人もいるなど、
さまざまな価値判断基準があるので、
どの立場が正しく、どの立場が間違っているというような問題ではないのです。
しかし、この多様性こそが刀剣の魅力なのではないでしょうか。
桃山文化の爛熟期である慶長年間、
日本刀にも新時代が到来します。
覇気ある作風が好まれるようになり、太刀姿は消え、
幅広で反りが浅く、全体に整った形になって行きました。
刀剣の世界では、この時代を境にそれ以前の刀剣を『古刀』といい、
以降の作を『新刀(慶長新刀)』と区別されるようになりました。
ただし、新刀鍛冶の祖とされる埋忠明寿が、
“水挫し法”という新たな鍛錬技法を考案し、
新刀時代が幕を開けたとされていますが、
それがどういう技法なのかは、まるでわかっていないのです。
刀鍛冶は町の顔役
それを象徴するのが、江戸時代中期に起きた『伏見義民事件』です。
伏見奉行・小堀政方の悪政に対し、町の世話役だった刀鍛冶・文珠包光らが、
自らの命をも顧みず幕府に直訴し、伏見民の苦難を救っています。
江戸時代中期の日本画家・伊藤若冲は、この文殊包光を敬愛し、
『伏見人形図』を残しています。
青果問屋の息子だった伊藤若冲もまた、
京の錦市場が窮地に陥ったときに、
調整役として町を救ったという逸話もあります。
あとがき
名工と呼ばれた人たちが、
伝え繋いできた技法の始まりには、数々のエピソードがあり、
そこに至る物語には、その時代の政治や世相が深くかかわっています。
遺されている名品の物語を知れば、
その名品の魅力も一層深く感じることができます。