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秋の季節と行事

法隆寺 夢殿の秘仏救世観音像2017年秋の開扉はいつ?七不思議とは何?

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法隆寺 夢殿の秘仏 救世観音像とはどんな仏像なのか、
秘仏とされる救世観音像だが、
夢殿本尊秋季特別開扉2017年はいつなのでしょうか?
救世観音像がなぜ秘仏と呼ばれるのか、
何故封印されていたのか、
七不思議といわれる法隆寺の謎について、
まとめてみました。

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法隆寺 夢殿の秘仏 救世観音像とは

正岡子規が俳句に詠んでいるように、法隆寺の時の鐘は、
昔から斑鳩の郷に時を告げてきた。
悠久の古寺。
その土地に残された建築、宝物、伝承・・・・
信仰の深さに頭を垂れる。

柿くへば 鐘がなるなり 法隆寺 

飛鳥時代の面影御残す 世界最古の木造建築群 法隆寺

法隆寺は別名「斑鳩寺」とも呼ばれ、
607年、用明天皇の遺志を継いで、推古天皇と聖徳太子が建立した寺といわれています。

奈良時代に開かれた日本の古寺で、
現在みられる建造物の多くは、中世以降のものです。

創建時の建物は、火災や戦乱で焼失してしまっている場合が多いのですが、
法隆寺の金堂や五重塔、中門、廻廊は飛鳥時代、
経蔵は奈良時代に建立された当時の姿を保っているのです。

寺院建築における主な建造物をまとめて「七堂伽藍」というのですが、
「金堂」「講堂」「経蔵」「鐘楼」「僧坊」「食堂」「塔」という、
そのすべてが古代の姿のまま現存しているのは唯一法隆寺のみだそうです。(すべて国宝)
なかでも、金堂と五重塔は世界的にも有名です。

金堂は入母屋造りの二重仏堂で、2階建てのように見えますが、上層は木組みのみで、
堂内には大陸様の釈迦三尊像のほか、
薬師如来像、阿弥陀如来像、四天王像などが安置されています。

また、五重塔は、高さ32.5メートルの我が国最古の塔で、
軒を広く出した安定感のある、美しい作りになっています。

五重塔や金堂のある西院伽藍に対して、
東院伽藍は、聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮跡です。

世界的に有名な建築家・ブルーノ=タウトが、
「建築の真珠」と賞賛したという「夢殿」は、東院伽藍にあります。

法隆寺の仏像 救世観音と聖徳太子

法隆寺は西院伽藍と東院伽藍の2つに分かれています。

西院伽藍の中門前から道を東に取り、東大門を出て広い石畳の道を進むと、
東院伽藍の四脚門の前に出ます。

門をくぐって境内にはいると、
回廊に囲まれた 国宝・夢殿の美しい姿が目に飛び込んできます。

東院伽藍の地下には、
聖徳太子の斑鳩(いかるが)の宮の遺構が眠っているのだそうです。

『日本書紀』によれば、
聖徳太子は推古天皇9年(601)2月に斑鳩の宮の造営に着手し、
4年半後の推古天皇13年(605)10月に宮が完成すると、
20年間も住み慣れた上宮(かみつみや)を離れて一族ともども斑鳩の宮に移りました。

そのため、
当時は斑鳩の宮は上宮王院と呼ばれました。

聖徳太子は、
推古30年(622)2月22日に49才で逝去するまで17年間をこの宮で過ごしました。

太子の死後、
斑鳩の宮は長男の山背大兄(やましろのおおえ)皇子に伝領されました。

それから21年後、宮は上宮王家滅亡の舞台となるのです。

皇極天皇2年(643)11月、
蘇我入鹿(そがのいるか)は、
巨勢徳太(こせのとこだ)と土師娑婆(はじのさば)に命じて斑鳩の宮を急襲させました。

山背大兄王らは数十人の側近者と防戦したのですが、勝算のないのを悟ると、
馬の骨を寝殿に投げ込み生駒山中に逃れました。

巨勢徳太は宮を焼き払い、
灰の中から骨を見つけると、山背大兄は死んだと思い、囲いを解いて退去しました。

皇子たちは5日ほど生駒山中に隠れていましたが、
山から出て斑鳩寺に入ると、そこで自決して果てました。

『上宮聖徳法王帝説』によれば、
このとき山背大兄王と子女および同母弟と、
その子女合わせて15人が亡くなったということです。

それからおよそ100年後の天平11年(739)、
かっての上宮王院(斑鳩の宮)の地を訪れた行信僧都は、
そのあまりに荒れ果てた様に涙を流し、
皇太子の阿倍内親王(後の孝謙天皇)に奏上して、
上宮王院を復興を図りました。

それが東院なのです。

しかし、八角円堂は故人をしのぶ廟堂です。

ということは、行信が意図としたのは、単なる斑鳩の宮の再現ではなく、
聖徳太子の御霊屋(おたまや)の建設だったのです。

夢殿の屋上に掲げられた露盤と宝殊は、
この建物が太子の廟であることを明確に示しています。

そのとき、行信が夢殿の本尊として安置したのが、救世観音像なのですが、
本尊として新しく彫像したのではなく、
行信僧都が聖徳太子ゆかりの寺院から譲り受けて安置したとされています。

そのため、
観音像はフェノロサが東洋のモナリザと喩えたアルカイックスマイルを浮かべ、
当時の止利様式の特徴を踏襲しているということです。

美術史家は7世紀も早い時期の彫像と推測し、
それ故に太子の霊を祀るために制作された、
あるいは太子自身であるとさえ言われています。

法隆寺の仏像の中で最も謎に満ちた仏は、救世観音像です。

救世観音は、
東院伽藍の中心に立つ夢殿に安置されていました。

739(天平11)年に八角堂の夢殿に納められた救世観音(造仏推定年代は629-654年)は、
長い間、誰もその姿を見ることを許されない秘仏でした。

ということは、
救世観音は、供養を目的として祀られた像ということになります。

737(天平9)年、都で天然痘が流行し、
藤原氏など政治の中枢にいた人物が相次いで亡くなりました。

これを聖徳太子の怨霊の仕業だと考えた人々は、
太子が亡くなってから100年以上を経てから、
夢殿を建て、太子の供養をしたのではないかという推論があります。

それほど太子の霊が強力で、
何らかの形で強い影響力が残っていたということなのでしょうか。

この時に夢殿に祀られた救世観音の像高は178.8cm。
聖徳太子の等身であると伝えられており、
太子は当時としてはかなりの長身だったということになります。

救世観音像はクスノキの一木彫刻で、
仏師は白土の下地に漆を塗り、金箔が押されています。

暗い夢殿の中を覗き込むと、
その顔には、かすかな笑みが浮かんでいるように見えます。
私には、どこか意味深な、ちょっと不気味な表情のように思えました。

『聖徳太子伝私記』によれば、
この像を彫った仏師は、仏の完成後まもなく、原因不明の死を遂げたらしく、
また、鎌倉時代にこれを模刻しようとした仏師が、
像の完成を見ることなく亡くなったという話もあるのです。

救世観音が夢殿の厨子に厳重に封印された理由は、
これらのできごとと関連がないとは言い切れないと思います。

つまり、太子の怨霊を恐れた人々が、
太子を神として祭り上げて夢殿の扉を閉ざし、更なる災難を繰り返さないように、
太子の等身像を白布で巻いて封印したということなのでしょうか。

法隆寺の仏像 救世観音開扉の瞬間

この仏像は非公開とされ、秘仏として扉を閉じた厨子に納められています。
礼拝のための仏像を秘仏とすることは、
東アジアの仏教圏の中でも特に日本に顕著な現象であり、
少なくとも奈良時代以前には特定の仏像が秘仏だったとする記録はないとされているのです。

ですが、各種史料によれば、
平安時代後期の12世紀には救世観音像はすで秘仏として扱われていたようなのです。

救世観音は、謎多き仏像です。
法隆寺の東院伽藍の本尊として1千年以上にわたって祀られてきたにも関わらず、
古記には、
この仏像が、いつ、誰によって造仏されたのかいっさい記述していません。

ようやく天平宝字5年(761)になって法隆寺の史料に
「上宮王(聖徳太子)等身観世音菩薩像」とあり、
聖徳太子の等身像があることが明らかになったのです。

それでも、なぜ秘仏化されたのか、
その経緯を示すものも残されていないということです。

1884(明治17)年、東洋美術史家のアメリカ人、
アーネスト・フェノロサ(1853-1908)は調査のために法隆寺を訪れました。

西洋化を急いでいた当時の日本には、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れており、
その混乱の中で、日本の古社寺に伝わる貴重な仏像や宝物類が失われつつあったのです。

そこでフェノロサたちは、明治政府の元で、公式の宝物調査を行い、
後の文化財保護法の制定や国宝の概念は、
この時行われた調査結果に基づいて生まれたものだといわれています。

1884(明治17)年8月16日、
明治政府の依頼を受けたフェノロサは、法隆寺を訪問しました。

政府の法隆寺宝物調査は、それ以前にも数回行われていたが、
救世観音を納めた厨子の開扉には至らなかったようです。

フェノロサは僧侶たちに観音像の開帳を迫ったのですが、
彼らは、聖徳太子の怒りを恐れて、封印を解くことをかたくなに拒んでいたのです。

フェノロサはあらゆる議論を展開して説得を試みました。

話し合いはもつれ、長く硬直状態が続いたのですが、
最後にはフェノロサの要求が聞き入れられました。

救世観音をその目で見た時のフェノロサの興奮した様子は、
『東亜美術史綱』に、次のように記されています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
二百年間用ひざりし鍵が錆びたる鎖鑰内に鳴りたるときの余の快感は
今に於いて忘れ難し。
厨子の内には木綿を以て鄭重に巻きたる高き物顕はれ、
其の上に幾世の塵埃堆積したり。
木綿を取り除くこと容易に非ず。
飛散する塵埃に窒息する危険を冒しつつ、
凡そ500ヤードの木綿を取り除きたりと思ふとき、
最終の包皮落下し、
此の驚嘆すべき無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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日本に仏教が伝来してより1400年間、
法隆寺には長い歴史の中で生まれた650体の仏像が安置されています。

中でも初期の仏像は、
大陸から進んだ知識と技術をもたらした渡来人たちが作ったもので、
これらの仏像は、高句麗を経て日本に伝わった北魏様式や、
百済からもたらされた南朝様式など、古い時代の中国や韓国の影響を色濃く残しています。

平安時代以降に日本人仏師らが造像した仏像に比べると、
その姿形の違いは歴然としています。

体はモデルのようにスリムで、どこかエキゾチックな顔立ちをしており、
『アルカイック・スマイル』という独特の微笑みを湛えているのです。

法隆寺は、仏教美術の宝庫でもあります。

法隆寺の仏像・仏具は、飛鳥時代から現代に至るまで各時代のものが現存していて、
たいへん貴重な文化財といえるのです。

そして、明治維新後の廃仏毀釈の際に、
法隆寺は寺宝300点余りを皇室に献納しました。

現在では、
そのほとんどが東京国立博物館の所蔵となり、
東京国立博物館内法隆寺宝物館で見ることができます。

法隆寺の夢殿本尊秋季特別開扉2017年はいつ?

夢殿本尊特別開扉の日程

国宝・夢殿は東院伽藍の中心的な建物で、
天平11年(739)に行信僧都が聖徳太子の冥福を祈るために建立した八角円堂です。

国宝・夢殿は、聖徳太子を偲んで、739年に建てられた東院伽藍の中枢を成す建物で、
廻廊で囲まれた八角形の円堂で、堂内には、
聖徳太子の等身像とされる救世観音像(ともに国宝)が安置されています。

その救世観音の御姿を拝することが出来るお開帳は、
毎年4月11日から5月5日と、10月22日から11月22日の年2回だけです。

春と秋の夢殿本尊特別開扉とは別に、
法隆寺では、毎年3月22日~24日に、
聖徳太子の遺徳を偲ぶ「お会式」が行われます。

特に、10年に一度の大法要は「聖霊会」と呼ばれ、
秘仏の公開や雅楽の奉納が行われます。

次の大法要「聖霊会」は、2021年で、 その年は記念すべき1400年法要です。

法隆寺 拝観時間と拝観料 法隆寺へのアクセス

奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1

JR関西本線(大和路線)法隆寺駅から徒歩20分
または、奈良交通バスで、「法隆寺門前」からすぐです

時間は2月22日~11月3日までが AM8時~PM17時
11月4日~2月21日までは AM8時~PM16時30分まで

拝観料 大人:1500円 小学生750円

法隆寺の七不思議と 聖徳太子の謎

法隆寺の七不思議というのは、色々言われているのですが、

・法隆寺には蜘蛛が巣をかけないのは何故?
・因可の池の蛙は片目なのは何故?
・境内の地面には雨だれの穴がつかないのは何故?
・雀も伽藍の堂塔に糞をかけないのは何故?
・五重塔の九輪には4本の鎌が掛かっているのは何故?
・法隆寺には地下に3つの伏蔵があるのは何故?
・夢殿の礼盤の下は常に汗をかいているのは何故?

番外編ではないのですが、法隆寺にはこのほかにもいくつもの不思議があるのです。

・いつ建てられたか分からない
・誰がたてたのか分からない
・本尊仏がなぜ3体もあるのか分からない
・夢殿の救世観音はなぜミイラのようにぐるぐる巻きだったのか分からない
・法隆寺の“中門”正面から見た時の柱の数が奇数(ほかの寺社は偶数が多い)

そして、
法隆寺の最大の不思議は、
存在が確かめられていない聖徳太子を崇めている事です。

聖徳太子に相当する人物はもちろんいましたが、
政治闘争に敗れた一王子という史実しかありません。(日本書紀の本文)

仏教を貴んだかもしれませんが、
後の話はほとんど平安から中世に(法隆寺の僧によって)創られた話だということです。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

隠された十字架 法隆寺論
価格:907円(税込、送料別) (2017/8/30時点)

こんな書籍があります。
これは学会でも認められている現在正当とされている説です。

聖徳太子といえば、半世紀前は一万円札の代名詞でした。

聖徳太子の一万円札を知っている人は少なくなっているでしょうが、
30年くらい昔は聖徳太子が一万円札の肖像でした。

しかしお札の肖像になる人の定義として、
故人であること、
実在の人物であること、という事を聞いたことがあるのですが、
いかがなものでしょう?

不思議なことだらけですが、謎が多い分 ミステリアスで興味津々です!

あとがき

夢殿本尊特別開扉に行くと、
夢殿の中には、救世観音像の厨子の周囲に
聖観音菩薩像(平安時代)
乾漆の行信僧都像(奈良時代)
平安時代に夢殿の修理した道詮律師の塑像(平安時代)
などが安置されているのですが、
開け放された扉の金網越しからでは暗すぎて、
行信僧都像以外は確認できませんでした。
仏像を礼拝の対象としてではなく、
拝観の対象として拝観料を取って参拝者に見学させるのであれば、
寺院側はもう少し展示の仕方を工夫して頂きたいものですね!

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