興味津々

竹久夢二展2018東京ステーションギャラリー「夢二繚乱」恋愛プロフィール


竹久夢二展が東京ステーションギャラリーで開催されます。
竹久夢二は明治から大正にかけて
ロマンと抒情が色濃く反映した時期に登場し、
多くの美人画を残した芸術家です。
100年以上も前にデザインされたものなのに、
何故か新しく、何故か今求められています。
そんな竹久夢二展の「夢二繚乱」や、
竹久夢二の生きた人生、
恋愛プロフィールをお伝えします。

  

竹久夢二展2018東京ステーションギャラリー「夢二繚乱」

「夢二繚乱」東京駅で逢いましょう

竹久夢二展「夢二繚乱」の展覧会は4章構成になっています。

第1章 夢二の若き日々

第2章 出版や印刷・版画など夢二の仕事

第3章 音楽や楽譜にまつわる夢二の仕事

第4章 夢二の自伝小説『出帆』原画と、没後の龍星閣による出版活動

【会場】東京ステーションギャラリー

〒100-0005 東京都千代田区丸の内1-9-1
TEL:03-3212-2485

【会期】

2018年5月19日(土)- 7月1日(日)

【休館日】

6月25日をのぞく月曜日

【開館時間】

10:00 - 18:00(入館は閉館の30分前まで)
金曜日は20:00まで開館

【入館料】

一般(当日)900円 高校・大学生(当日)700円

一般(前売)700円 高校・大学生(前売)500円

中学生以下無料
20名以上の団体は、一般800円、高校・大学生600円
障がい者手帳等持参の方は当日入館料から100円引き(介添者1名は無料)

[チケット販売場所]

東京ステーションギャラリー(開館日の閉館30分前まで)

ローソンチケット(Lコード=35577)
イープラス
CNプレイガイド
セブンチケットにて取扱い

前売券販売は2018年5月18日まで
東京ステーションギャラリー受付での前売券販売は5月6日までの開館日

竹久夢二展「夢二繚乱」

竹久夢二展「夢二繚乱」の展示構成は4章構成になっています。

第1章では、
夢二の若き日々を検証します。

第2章では、
出版や印刷・版画などを中心にした夢二の仕事を、
第3章では、
その中でも音楽や楽譜にまつわる仕事を取り上げ、
第4章では、
夢二の自伝小説『出帆』原画と、没後の龍星閣による出版活動などを紹介します。

第1章 夢二のはじまり

若かりし学生時代、
夢二は新聞、雑誌に絵や詩を投書して糊口を凌いでいました。

転機となったのは、
明治38(1905)年6月に『中学世界』夏期増刊「青年傑作集」へ投書した
コマ絵「筒井筒」の第一賞入選でした。

そして明治42(1909)年の『夢二画集 春の巻』を刊行します。

竹久夢二展では、
早稲田実業学校に在学中に制作した肉筆の画文集『揺籃(ようらん)』を初公開し、
若き日の夢二の姿を紹介すると同時に、
初期の作例を通して、
どのように画家として歩み始めたのか、夢二の原点に迫ります。

第1章の見どころ

初公開! 夢二青年期の試作

『揺籃』は明治36(1903)年に制作された、
外国文学の翻案や創作、さらに数点の挿絵を含む手書きの冊子です。

推敲の跡も生々しいこの試作からは、
20歳の夢二の豊かな才能と、
自分の創作を世に問いたいという強い願望を感じとることができます。

第2章 可愛いもの、美しいもの

大正3(1914)年10月
日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」が開店します。

夢二が正式に結婚した唯一の女性・岸たまきが主人を務めた港屋は、
夢二がデザインした千代紙、便箋や封筒、半襟などを販売する
ブランドショップでした。

また、恩地孝四郎や田中恭吉ら若い芸術家たちが集い、
作品を発表できるギャラリーでもありました。

この時期には「夢二式美人」のスタイルが確立されただけでなく、
絵葉書、雑誌の表紙や挿絵、本の装幀など、
多方面にわたって夢二は活動を展開させていきました。

自らの個展の開催にも意気込む一方で、
鑑賞者や読者、
女性や子どもの手に届く美術を提供し続けた夢二の幅広い画業を見ていきます。

第2章の見どころ

夢二の全貌を感じる500点超の展示品

夢二の創作活動は、出版と深い関わりをもっていました。

竹久夢二展では、過去最大級の500点を超える展示品によって、
夢二の多彩な活動をさまざまな角度からご紹介します。

数多く出版された自身の画集をはじめ、
装幀本、楽譜集、子どものための絵本、絵葉書や千代紙、半襟のデザイン、
そして肉筆画に至るまで、竹久夢二の全貌を感じていただける展覧会です。

『揺籃』

第3章 目で見る音楽

夢二は数多くの楽譜の表紙を描いています。

代表的なのは、セノオ音楽出版社より発刊されたセノオ楽譜で、
日本や世界各国の楽曲のイメージを、
さまざまなジャンルの要素を取り入れたデザインで表現しました。

夢二は自ら作詞を手がけた「宵待草」のほか270点余りの楽譜で、
いわばジャケットを任されています。

また、夢二は童謡の楽譜にも積極的に参加しました。

夢二が描いた大正時代の豊かな音楽の世界を紹介します。

第4章 出帆

昭和2(1927)年に都新聞で連載された『出帆(しゅっぱん)』は、
夢二の半生を綴った自伝小説です。

挿絵には、彼の愛した女性たちや彼女たちと訪れた風景、
あるいは抽象的な心理描写などが水墨で描かれています。

『出帆』の連載後に海外へ旅立った夢二は、
自ら新聞記事を切り抜いてまとめ、
『出帆』の書籍化を友人らに託していました。

夢二と交流した人々や龍星閣が尽力した夢二の著作や画集の刊行を通して、
夢二を支え、見出し、繋いだ出版について再考します。

第4章の見どころ

初公開! 自伝的小説『出帆』挿絵原画

発表当時大きな話題となった『出帆』には、
134点の挿絵が付けられました。

竹久夢二展では、この挿絵原画全点を一堂に初公開します。

この時代の小説で、
挿絵原画がすべて残されているのはたいへん珍しい例です。

夢二円熟期の傑作挿絵を存分にご堪能ください。

竹久夢二の略歴と恋愛プロフィール

竹久 夢二(たけひさ ゆめじ)
1884年(明治17年)9月16日 – 1934年(昭和9年)9月1日
日本の画家・詩人。本名は竹久 茂次郎(たけひさ もじろう)

竹久夢二は、数多くの美人画を残しており、
大正ロマンを代表する画家で「大正の浮世絵師」などと呼ばれていました。

表紙絵や挿絵を描くだけでなく、
詩や歌謡、童話などの文筆分野でも数々の作品を発表、
なかでも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、
全国的な愛唱曲となりました。

また、広告宣伝物のキャッチコピーから、
日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけるなど、
近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいわれ、
今でいうならマルチプレーヤーだったのです。

そんな竹久夢二は、
岡山県邑久郡本庄村に代々酒造業を営む家に次男として生まれますが、
夢二が生まれる前年に兄が亡くなっていたため、
事実上の長男として育てられ、幼少時は裕福に暮らしたのです。

15歳の時、兵庫県神戸尋常中学校に入学しますが、12月には家の都合で中退、
16歳の時、父が家業の造り酒屋をたたみ、
一家で福岡県八幡村(現・北九州市八幡東区)枝光に転居します。
父は操業間近な八幡製鉄所に職を求めたため、
茂次郎もしばらく製鉄所で働きます。

茂次郎は17歳で家出をし単身上京、早稲田実業学校専攻科入学します。

学生時代、スケッチを『読売新聞』などに投書し、
平民社発行の『直言』にコマ絵が掲載されます。

このころから、初めて夢二を名乗るようになり、
早稲田実業学校専攻科を中退します。

日刊『平民新聞』に諷刺画などの絵を掲載し、
夢二の才能が開花していくのです。

才能ある芸術家に付き物の恋愛遍歴について、夢二にも数々の評伝があり、
自身の日記や手紙などで語られる愛の言葉は、
後世の多くの創作の題材ともなっていきます。

「夢二をめぐる3人の女性」たまき・彦乃・お葉、この三人についても、
夢二の作品に間違いなく影響を与えています。

『たまき』は唯一、夢二が戸籍上妻とした女性で、
たまきには結婚歴があり、前の夫との間には二人の子供があったということです。

たまきが生活のために早稲田鶴巻町に開店した絵葉書店「つるや」に、
夢二が客として毎日店に通いつめた挙句、2ヵ月後に結婚しています。

このたまきとは、2年後に離婚しますが、
その翌年には再び生活を共にし、別居するといったことを繰り返しています。

夢二は彦乃という女性と過ごしながらも、
たまきの画学生・東郷青児との関係を邪推し、
富山県の海岸で夢二がたまきの腕を刺すという刃傷沙汰を起こし、
たまきとは破局を迎え絶縁にいたるのです。

しかし、たまきは結核療養中の夢二を信州まで見舞い、
また夢二亡き後も終生彼を慕い続けたということです。

彦乃は、日本橋の紙問屋の娘として裕福に育ち、
女子美術学校の学生で、夢二のファンでした。

絵を習いたいと「港屋絵草子店」を訪問し、交際が始まります。

たまきと別れ京都に移り住んだ夢二としばらく同棲するのですが、
大正7年(1918年)九州旅行中の夢二を追う途中、別府温泉で結核を発病します。

彦乃は父の手によって東京に連れ戻され、
夢二は本郷菊富士ホテルに移りますが、彦乃との面会を遮断されます。

そして、御茶ノ水順天堂医院に入院した彦乃は、
そのまま短い人生を終えました。

夢二は彦乃を最も愛していたようで、
その死後しばらくショックから立ち直れなかったということを、
「彦乃日記」に残しています。

お葉は秋田出身で、夢二より二十歳年下の女性で、
夢二と出会った当時、東京美術学校のモデルとして人気がありました。

藤島武二、伊藤晴雨らのモデルをつとめた後に、
菊富士ホテルに逗留していた夢二のモデルとして通ううちに同棲を始めます。

そののち、渋谷に所帯をもち、
大正13年(1924年)
夢二が設計した世田谷「少年山荘」に一緒に移り住んみました。

そのご、一児をもうけるのですが亡くなってしまいます。

翌年、お葉は自殺を図り、半年後に夢二と別離しますが
お葉はその後、医師と結婚し主婦として穏やかな生涯を過ごしたということです。

竹久夢二の絵に見られる優しさは、
三人の女性と浮名を流した、優柔不断な男の頼りなさなのでしょうか。

竹久夢二が四十代になったころ、
女性たちの影も、夢二の周りから消え、
四十半ばで両親を亡くし、
五十歳を目前に、竹久夢二は亡くなります。

あとがき

大正ロマン 
竹久夢二の絵に出てくる女性の着物が、
今、若い女性に注目されています。

あの時代に生きた女性の強さに憧れているのかも知れませんね。

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