興味津々

文化勲章のデザインを考案したのは誰?最年少で受賞した人の賞金や年金は?

文化勲章とは、学術や芸術などの文化の発展に目覚ましい功績を残した人に授与される、
日本で最も権威ある勲章です。

11月3日の文化の日に、
宮中において特別に天皇陛下から親授されます。

勲章というと、どうしても軍隊のようなイメージが強いのですが、
文化勲章は、1937年に設けられた最も新しい勲章です。

  

文化勲章のデザインを考案したのは誰?

昭和12年2月11日、
当時の内閣総理大臣・廣田弘毅の発案により、
勅令第9号を以て文化勲章は制定されました。

勲章のデザインは、橘の五弁の花の中央に三つ巴の曲玉を配し、
鈕※(章と綬の間にあるもの)にも橘の実と葉が用いられています。

当初の図案では、日本文化を表すものとして、
桜の花が予定されていましたが、

『桜は昔から武を表す意味によく用いられているので、
文の方面での勲績を賞するには橘を用いたらどうか』

との、昭和天皇の思召しにより、
現在のデザインになったのだということです。

文化は永遠であるべき、
そんな思想を感じさせる逸話が残っています。

また常緑樹である橘は、
平安京の頃から京都御所紫宸殿の南庭に植えられ、
「右近の橘」と称されるなど古来から珍重されており、
その悠久性、永遠性は文化の永久性に通じることから、
文化勲章のデザインに採用されたと言われています。

文化勲章第一号受賞者と最年少受賞者

記念すべき文化勲章の第一号受賞者は、長岡半太郎

東京帝国大学(現在の東京大学)の教授として、
多くの弟子を指導し、
自らも『土星型原子モデル』提唱などの、
学問的業績を残した物理学者です。

この長岡教授が、1939年
スウェーデンのノーベル賞委員会に、
湯川秀樹氏の授賞を推薦されています。

そして、湯川秀樹氏は1943年、
36歳の若さで文化勲章の最年少受賞者となったのです。

湯川秀樹氏は、1934年 27歳の時に、
『中間子理論』構想を発表、

翌1935年には『素粒子の相互作用について』を発表し、
当時知られていた陽子と中性子の間の力を媒介する新しい粒子、
すなわち『中間子(現在のπ中間子)』の存在を予言しました。

この研究が高く評価されて、
1940年には学士院恩賜賞を受賞し、
文化勲章はそれに続いての受賞でした。

その後、1947年にセシル・パウエルらが、
湯川博士の提唱していた
π中間子を実際に発見し、理論が立証され
それによって1949年、湯川博士は、
世界的な賞『ノーベル物理学賞』を、
日本人で初めて受賞したのです。

文化勲章に年金は支給されるのか

文化勲章を含めて
『勲章の授与はいかなる特権も伴わない』と、
憲法に定められているので、
受章者に、金品や年金が支給されることはありません。

ですから、
文化勲章受章者に年金や褒賞金を支給することができませんでした。

このため1951年(昭和26年)に勲章とは別制度として、
「文化功労者」を設け、
これに年金を支給することで
実質的に文化勲章年金の機能を持たせたのです。

文化勲章の受章者は、
近年では、基本的に前年までに、
文化功労者に選ばれた人の中から決定されているため、
毎年、15人ほど選ばれる文化功労者には、
終身年金として年額350万円が支給されています。

あとがき

文化勲章の受章候補に選ばれながら、
それを辞退する文化人もいます。

1993年8月~94年4月に第79第内閣総理大臣を務め、
98年に政界を引退した細川護煕氏

女優の杉村春子さんは、
大変名誉なことで文化勲章の重みもわかっているが、
芝居の仕事を続けている最中であり、
大きすぎる勲章を頂くと、いつも首にかかっているようで、
この先、芝居を続けていくことができなくなるかもしれないと。

ノーベル文学賞を受賞した文学者の大江健三郎氏は、
「民主主義に勝る権威と価値観を認めないからだ。
これは極めて単純だが、非常に重要なことだ」と、
文化勲章の受章を辞退しました。

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