興味津々

京都国立博物館 国宝一遍聖絵と時宗の名宝展開催日程と会場へのアクセス

時宗の名宝が一挙公開されます。

京都国立博物館で、
この春開催される特別展

時宗二祖上人 七百年遠忌記念
国宝 一遍聖絵と時宗の名宝展の開催日程をご案内します。

また、一遍上人と時宗について、
一遍上人ゆかりの寺についてもまとめました。

  

京都国立博物館 国宝一遍聖絵と時宗の名宝展開催日程

特別展 時宗二祖上人七百年御遠忌記念
        国宝 一遍聖絵と時宗の名宝

会場 京都国立博物館 平成知新館

会期 2019年4月13日(土)~ 6月9日(日)

開館時間 火~木・日曜日:午前9時30分~午後6時(入館は午後5時30分まで)
     金・土曜日:午前9時30分~午後8時(入館は午後7時30分まで)

休館日 月曜日
ただし、
月曜日が祝日・休日となる場合は開館し、翌火曜日を休館とします。

観覧料 一 般 1,500円(1,300円)( )内は20名以上の団体料金
大学生 1,200円(1,000円)
高校生  900円 (700円)

中学生以下は無料です。

★国宝一遍聖絵と時宗の名宝

遊行や踊り念仏などで知られる時宗は、
宗祖 一遍上人(1239年~1289年)によって開かれました。

この時宗を教団として整備し、
大きく発展させたのが二祖の真教上人でした。

2019年に真教上人(1237年~1319年)の七百年遠忌を迎えるのを記念して、
時宗の名宝を一堂に会する展覧会が開催されます。

全国各地を遍歴した一遍上人の生涯を描いた、
国宝『一遍聖絵(清浄光寺蔵)』と、
真教上人の足跡をつづった『遊行上人縁起絵』、
歴代祖師の肖像彫刻や肖像画など、
時宗の名宝の全貌を堪能することができるまたとないチャンスです。

なかでも『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』は、
『一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)』とも呼ばれ、
鎌倉時代を代表する絵巻です。

伊予国(現在の愛媛県)に生まれ、浄土宗を修めたのち、
新しく独自の宗旨である『時宗』を興した、
開祖 一遍(遊行上人)を描いた絵巻は、国宝に指定されています。

大判の絹地に当時の風景や人物が精細に描かれ、
中世の歴史を語る上でも重要な作品で、
全十二巻が全巻公開されます。

京都国立博物館 国宝一遍聖絵と時宗の名宝展 一遍上人と時宗

不信心でも救われる遊行の宗派と言われる『時宗』は、
1274年に一遍上人によって興された宗派です。

主な経典は『阿弥陀経』『無量寿経』『観無量寿経』で、
御本尊は『阿弥陀如来様』と『南無阿弥陀仏の文字』です。

時宗の特徴としては、
『南無阿弥陀仏』と書かれた念仏札を配る遊行の旅で、
自然発生した宗派です。

すでに人々は阿弥陀如来様によって救われているので、
不信心者でも救いを求める必要はないと説いています。

時宗の宗祖である一遍上人は、
ほかの宗祖たちと少し毛色が違っていて、
なにしろみずから宗派を開かず、寺院をも持たず、
著作すら残さずに全国を遊行(布教の旅)し続けたのです。

その足跡は、南に鹿児島県、北に岩手県までと、
ほぼ全国に及んでいるのです。

旅を続けるうちに、
一遍上人の周りには共に遊行する僧や信徒たちが次々と増えていき、
いつしか彼らは『時衆』と呼ばれる大集団となりました。

これがのちに時宗教団と発展していったのです。

一遍上人は、
13歳で法然さまの孫弟子にあたる聖達(しょうたつ)に弟子入りして、
浄土宗を学びました。

その後一度は還俗して結婚しますが、
32歳の頃に妻子を捨てて、ふたたび出家し、
身一つで遊行を始めました。

浄土宗を学んでいたため、
一遍上人は『南無阿弥陀仏』と書かれた念仏札を道行く人に手渡しながら、
各地を練り歩きました。

しかし、高野山を経て熊野へ参る途中、
ある僧から念仏札の受け取りを拒否されてしまうのです。

「自分は阿弥陀如来を信仰していないから・・・」というのが理由でした。

一遍上人は念仏札の受け取り拒否に頭を悩ませました。

そして熊野本宮に参詣したとき、
山伏の姿をした熊野権現(阿弥陀如来)が現れて、

「信心も不信心も選ばず、念仏札を配るべし」と言われたのです。

ここで一遍上人は、信じる信じないにかかわらず、
阿弥陀如来さまは、すべての衆生をすでに救っていると思い至ったのです。

そして『南無阿弥陀仏』の札に『決定往生六十万人』の文字を追加し、
人々に念仏札を配り続けたのです。

浄土宗の教えでは、阿弥陀如来様を信じ、
往生するまでひたすら、
『南無阿弥陀仏』と唱えることで救われると説いていました。

それに対して時宗では、
信じていなくてもかまわないとしているのが最大の特徴です。

また『南無阿弥陀仏』という名号自体に功徳があるので、
それを必ずしも口にしないというのです。

もし、信心がなければ救われないとするなら、
物心がつく前の赤ん坊などは救われないということになるわけです。

また念仏を唱えることができない人や、
片腕をなくして手を合わせることができない人もいるかも知れないではないか。

そんなことをしなくても救ってくださるのが阿弥陀如来様なのです。

その存在を知らしめるために、
一遍上人は念仏札を配り続けたというのです。

一遍上人は、阿弥陀如来様にすがる必要もなく、
むしろ救いを求めて念仏をとなえたところで、
往生できないとも説いています。

これはいったいどういうことなのでしょうか?

時宗で重視される『無量寿経』には、
かつて法蔵菩薩という修行僧がすべての衆生を救おうとして、
四十八の願を立て、
そのすべてを満たしたから阿弥陀如来様になったと書かれています。

つまり、阿弥陀如来様はすべての人々を救ったからこそ、
阿弥陀如来様になってというわけです。

そうなると人々は、
すでに救われていることになるというのです。

しかし、阿弥陀如来様にすがって『南無阿弥陀仏』と唱えることは、
まだ救われていないと断言しているようなものです。

だとしたら阿弥陀如来様も存在しないことになるのです。

存在しない阿弥陀如来様に救いを求めたところで、
救われるはずもない。

だからこそ救いを求めず、
阿弥陀如来様のおかげですでに救われていると思うこと。

それによって阿弥陀如来様は存在することになり、
真の幸福が訪れるのだとしています。

念仏札を配りながら布教を続ける一遍上人の旅には、
いつしか多くの人々が同行するようになっていきました。

一遍上人の教えに共感した人が多かったのも事実ですが、
そこまで大集団になったのは、
『踊り念仏』の効果も大きかったようです。

『踊り念仏』は、一遍上人が考案した布教方法で、
鐘や太鼓を打ち鳴らして踊りながら『南無阿弥陀仏』と唱えるものです。

すでに阿弥陀如来様によって、
救われていることの感謝と喜びを表した踊りで、
人々に幸せを示しました。

それを見た人々は、楽しさを求めて群れをなし、
みんなで念仏をとなえながら、一心不乱に踊り歩いたということです。

この踊り念仏を広めるためにつくられた道場の一つが、
のちに時宗の総本山となりました。

やがて踊り念仏は収束していきましたが、
盆踊りに形を変えて、今も各地に残されています。

時宗総本山『遊行寺』と一遍上人ゆかりの寺

時宗総本山『遊行寺』

時宗総本山『遊行寺』は、
藤澤山 無量光院 清浄光寺という寺院です。

寺院を建立することなく、
布教しながら各地を旅した時宗の開祖・一遍上人は、
遊行上人とも呼ばれています。

そこから、時宗の総本山である清浄光寺も、
『遊行寺』という通称の方が有名です。

現在の神奈川県藤沢市は、遊行寺の門前町として生まれ、
藤沢山の山号が町の名前となり、やがて東海道の宿場町として発展しました。

歴代の遊行上人は、遊行を終えると地位を後進に譲り、
清浄光寺に独住すると、藤澤上人(藤沢上人)と呼ばれるようになりました。

開山は、鎌倉時代末期の1325年、
時宗第四代の法主となった呑海(どんかい)が、
実の兄である相模の地頭・俣野五郎影平の支援を受けて創建しました。

関東の寺の中でも格式は極めて高く、
室町幕府を開いた足利尊氏が本堂を増築し、
南朝の後光厳天皇からは、寺の名を記した直筆の額を賜りました。

徳川家康も江戸幕府を開く前の1591年に百石を寄進しています。

ただ残念ながら境内の伽藍の多くは、明治の大火で焼失し、
相模湾を震源とする1923年の関東大震災でも多大な被害を受けました。

このため、現在の建築物の多くは、昭和に入ってからのものです。

総門から続く参道は、阿弥陀如来様の四十八願から四十八段と名付けられ、
春は桜並木がじつに美しく、地元では『いろは坂』と通称されています。

境内東門の左手にある『藤沢敵御方供養塔(怨親平等の碑)は、
室町時代の1416年に起きた禅秀の乱ののち、
衝突した足利氏と上杉氏双方の犠牲者を、
人だけでなく馬などまで含めて供養したものです。

御本尊の阿弥陀如来様は、慈覚大師・円仁ご縁の御神木を使って、
浅草寺の弁財天とともにつくられ、のちに遷座されました。

本堂は、木造建築としては東海道随一と言われ、
そのそばに鐘楼がそびえます。

鐘楼の梵鐘は、1356年に鋳造され、
戦国時代に清浄光寺が戦乱で焼失したときは、
北条氏が小田原城に持ち去りましたが、
江戸時代に寺が再建された後、返還されました。

本堂裏手にある長生院には、遊行上人との縁の深い 小栗判官こと満重と十勇士や彼らを助けた照手姫、満重の愛馬・鬼鹿毛(おにかげ)のお墓があります。

一遍上人ゆかりの寺 西月山 真光寺

一遍上人が1289年に没した場所が、神戸市にあるこの真光寺です。

真光寺の創建は意外と古く、飛鳥時代の645年、
あるいは9世紀前半の仁明天皇の治世と言われています。

境内の御廟所は一遍上人の遺骨が納められ、
遊行上人が柳の精霊を救った故事にまつわる石碑もあります。

無縁仏の墓石を円錐型に積み上げた『無縁如来供養塔』は、
檀信徒の先祖・あるいは無名の人々の墓ながら壮観です。

真光寺は1945年に一度、神戸空襲で壊滅、
さらに1995年の阪神・淡路大震災で、
御廟所、観音堂、鐘楼が倒壊したのち再建されました。

このため伽藍自体は古くありませんが、
一遍・二祖真教の伝記である重要文化財の『遊行縁起』全十巻など、
寺宝は鎌倉時代のものが多くあり、
そのほか、阿弥陀如来像、観音菩薩像、勢至菩薩像なども所蔵されています。

京都国立博物館 国宝一遍聖絵と時宗の名宝展開催 会場へのアクセス


京都国立博物館 

〒605-0931京都市東山区茶屋町527
075-525-2473(テレホンサービス)

交通アクセス

★JRをご利用の場合

JR京都駅下車、京都駅前

・D1のりばから市バス100号、

・D2のりばから市バス206・208号系統にて博物館・三十三間堂前下車、徒歩すぐ

JR京都駅下車、京都駅八条口のりばから

・プリンセスラインバス(京都女子大学前行き)にて東山七条下車、徒歩1分

・JR京都駅からJR奈良線にて東福寺駅下車、
 京阪電車にて七条駅下車、東へ徒歩7分

・JR京都駅下車、七条通を東へ徒歩20分

★近鉄をご利用の場合

・丹波橋駅下車、京阪電車丹波橋駅から七条駅下車、東へ徒歩7分

★京阪電車をご利用の場合

・七条駅下車、東へ徒歩7分

★阪急電車をご利用の場合

・河原町駅下車、京阪電車祇園四条駅から七条駅下車、東へ徒歩7分

・河原町駅下車、四条河原町から市バス207号系統にて東山七条下車、徒歩3分

・河原町駅下車、四条河原町から
 プリンセスラインバス(京都女子大学前行き)にて東山七条下車、徒歩1分

★市バスをご利用の場合

京都駅前
・D1のりばから市バス100号、
・D2のりばから市バス206・208号系統にて
  博物館・三十三間堂前下車、徒歩すぐ

★プリンセスラインバスをご利用の場合

・京都駅八条口のりばから京都女子大学前行きにて東山七条下車、徒歩1分

・四条河原町から京都女子大学前行きにて東山七条下車、徒歩1分

あとがき

京都国立博物館のトラりん お顔がちょっと怖いし、
トラりんひとりぼちじゃさみしいね!

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