興味津々

シルクロードの終着点が正倉院と言われるのは?ルートと主な国と地域は?

正倉院がシルクロードの終着点と言われるのは
何故なのでしょう?
正倉院とシルクロードには
どのような繋がりがあるのでしょうか?
シルクロードという名前の起源や、
どこを通るルートなのか、
シルクロードと言われる地域は
どの国のことなのか、
その国からもたらされた正倉院の宝物には
どのようなものがあるのかをまとめました。

  

正倉院がシルクロードの終着点と言われるのはなぜか?

「平城京はシルクロードの終着点」という言葉があります。

本来シルクロードは、ローマと中国の長安(今の西安)を結ぶ交易の道で、
地中海、中東、中央アジア、東アジアの物や人、
そして心が行き交う道だったのです。

我が国は大陸とは海を隔てた東の端にあったので、
直接シルクロードを行き交うことはありませんでしたが、
中国へたどり着いた品物や知識は、
日本からの留学僧や留学生により我が国へもたらされたのです。

我が国へもたらされたシルクロードの品のうちいくつかは、
正倉院に納められ、今に至ります。

海を越えて渡ってきたものは、物だけではありません。
人もまた、遥々海を渡って我が国へやってきたのです。

東大寺の大仏(廬舎那仏)の開眼会が行われたのは752年のことです。

開眼会とは、仏像の目に墨を入れ、僧が祈りを込めて魂を入れる儀式で、
この儀式を経なければ、仏像は単なる美術工芸品にすぎません。

眼を入れ、魂を入れて初めて仏像は
『仏様が、そこに姿を現している存在』として認められるのです。

大仏造営は国の大プロジェクトでしたから、
大仏開眼会もくにをあげての大掛かりな儀式になりました。

大仏を創ることを決定した聖武天皇は、
開眼会の時にはすでに天皇の位を娘の孝謙天皇に譲り、
聖武天皇ご自身は太上天皇として開眼会を見守っておいででした。

その傍らには光明皇太后、がおられ、
孝謙天皇や大臣・皇族たちをはじめ、
国中が大仏に目が入るその瞬間を見守っていたのです。

この時、
『大仏の眼を入れる』という大役を果たしたのが、インド人の僧・菩提遷那です。

ブッダ(お釈迦様)が仏教の教えを説かれた国・インドの僧をわざわざ招いたのです。

国家的大事業の儀式に、本場の僧を招くことは、
重要かつ素晴らしいアイデアでした。

当時、
インドと日本との間に直接行き来するルートはなかったので、
おそらく中国を経由して招いたのではないかと思われます。

もしくは菩提遷那というインド人の僧は、
中国に滞在していた人なのかも知れません。

当時の中国の都・長安には、
シルクロードの各地の民族がたくさん出入りしていたようで、
インド人がいても珍しいことではなかったと思われます。

東大寺の大仏開眼会で、
大仏に菩提遷那が眼を描きいれたとされる筆が、
今も正倉院に大切に保管されています。
この筆には、多くの人の思いと、民族を超えたつながりの歴史を感じられます。

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正倉院へ宝物を運んだシルクロードのルートとは?

シルクロードというのは、『絹の道』という意味ですが、
ドイツの地理学者で、リヒトホーフェンという人がいます。

リヒトホーフェンは、
古代中国とヨーロッパの関わりについて研究を重ねていた人ですが、
研究の為にいろいろな地域を回っているうちに、
2000年以上も前に、中国の絹が遠くローマまで運ばれていたことを突き止めました。

リヒトホーフェンは、
絹を売り買いする人々が行き交った道を、『ザイデンシュトラーセン』と名付けました。

『ザイデンシュトラーセン』の『ザイデン』とはドイツ語で“絹”
そして『シュトラーセン』というのは“道”という意味です。

ですから
『ザイデンシュトラーセン』を英語に訳して『シルクロード』となったのです。

その後、
たくさんの人によって探検や発掘が行われ、
シルクロードは一つの道ではなく、
大きく分けて3つのルートがあったと視なされます。

東から西へ、つまり中国からヨーロッパへは、
絹をはじめ、香料や陶器などが運ばれ、
逆に、ヨーロッパから中国へは工芸品など様々なものがもたらされました。

正倉院の宝物には、シルクロードによって伝わったものが多く、
そのため正倉院は『シルクロードの終着点』と言われるようになったのです。

中国とヨーロッパのローマを繋ぐシルクロードというルートには、
3つのルートがあると言われています。

その一つは、草原のシルクロードと言われ、
ステップ路ともいわれています。

家畜とともに移動生活をする遊牧民族によって利用されたルートで、
あまり高い山はなく、ステップ(草原)地帯が広がっています。

砂漠のシルクロードと言われるオアシス路は、
中央アジアの砂漠地帯を通っていくルートです。

人が生活するには難しい砂漠の中で、
水が湧き、植物が生えているオアシスを繋いでいく交通が発達しました。

ほとんどが砂漠なので、行き交う商人たちは集団になって、
ラクダなどの動物に荷物を積んで運んでいきました。

絹が運ばれたこの道から、『シルクロード』という名前が生まれました。

もう一つのルートは、海のシルクロードと呼ばれる南海路です。

大陸の南側をぐるりと廻ってローマへ行くルートで、
海を渡って貿易を行いました。

造船、航海技術の進歩により、中世以降さらに活発になり、
中国の陶磁器が運ばれたルートです。

正倉院へ宝物を運んだシルクロードの主な国と地域は?

正倉院がシルクロードの終着点と言われますが、
シルクロードから正倉院へもたらされた宝物や文化は、
中国を中継し海を渡ってやってきたのです。

正倉院に納められている宝物で、
シルクロードを通ってインドから運ばれたものがあります。

インドは紀元前6世紀ころから5世紀ごろに、
お釈迦様が仏教を始められたところです。

日本においては6世紀半ばの欽明天皇の頃、
百済から古代日本(大和朝廷)への仏教を公伝したとされています

現在のインドは、ヒンズー教やイスラム教の力が強くなり、
仏教徒は少なくなっています。

◆インドから正倉院に伝わった宝物

★金銅幡…コンドウノバン
インドの軍旗から変化した仏教の飾り

★螺鈿紫檀五絃琵琶…ラデンシタンゴゲンビワ
五絃の琵琶はインドが起源

★紅牙撥鏤撥…コウゲバチルノバチ
螺鈿紫檀五絃琵琶のものではありませんが、
よく使われた後の残る楽器演奏の道具

◆中東(ササン朝ペルシャ)
現在のイランやイラクを中心に、中東の広い地域を支配していた。

★漆胡瓶…シッコヘイ
ペルシャ風の形をした水差し

★白瑠璃椀…ハクルリノワン
正倉院の蔵の中で保管されていたので、ガラス器も輝きを失っていない。
イラン国立博物館所蔵のガラス器は、埋蔵されていたため透明感はない。

★瑠璃の坏…ルリノツキ
ペルシャと唐の合作グラス ガラス部分はペルシャ製で、
足の部分が唐で作られたもの。

◆中国(唐)

★平螺鈿背円鏡…ヘイラデンハイノエンキョウ
世界の会や宝石で飾られた鏡。ガラスの鏡がなかった時代には、
銅などの金属の板を磨きこんで姿を映していました。
高貴な人しか持つことはできず、素晴らしい装飾が施されていた。

★金銀平文琴…キンギンヒョウモンキン
嵯峨天皇が納めた唐の琴

★紅牙撥鏤尺…コウゲバチルノシャク
実用的ではない物差し

◆東南アジア

★蘇芳地金銀絵箱…スオウジキンギンエノハコ
高価な染料(蘇芳)で染めた箱

★黄熟香…オウジュクコウ
香りの元となる樹脂をたくさん含んだ香木
黄熟香は中世以降『蘭奢待』とも呼ばれる

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あとがき

シルクロードによってインドや中東、東アジアで作られた、
数々の美術工芸品が中国にもたらされ、
それが遣唐使によって我が国日本へ渡ってきた。
それが正倉院に保管されていたから、
私たちは千二百年、
それ以上昔の人々からのメッセージを知ることが出来るのですね。


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