正倉院展の正倉院宝物は誰がどのようにして集めどこで守られてきたのか?

秋の行事

正倉院展で展示される正倉院の宝物とは、
どのようなものがあるのだろうか。
正倉院の宝物は、誰がどのようにして集めた物なのか。
正倉院展で見ることが出来る正倉院の宝物は、
長い歴史の中で、
どのようにして、守り続けてこられたのかなど、
正倉院展についてまとめました。

  

正倉院展の正倉院宝物にはどのようなものがあるのか?

正倉院展に展示される正倉院の宝物とは、どのようなものなのでしょうか。

正倉院に納められている宝物は、
ほかの博物館にあるような品々とは、ちょっと違います。

博物館で良く見られる遺跡で発掘されたもののような、
出土品ではないことです。

正倉院の宝物はすべて、
その時代の高貴な人々が使っていた生活の道具や、楽器・武具・仏具・絵画など、
大切にしていた宝物を、そのまま守り続けてきたものなのです。

出土品ではないので、
ガラス器なども作られた当時の透明感や輝きを失っていないのが特徴です。

聖武天皇が大仏開眼会の際、着用した履(くつ)や、
天武天皇から代々の天皇へと引き継がれた、ケヤキの木で作られたキャビネット。
シルクロード文化の香り高い楽器といった、華やかな品ばかりではありません。

仏具としての笊や籠なども保存されているのです。

どれもみなその当時の生活や儀式が行われていた様子を思わせるのに十分な、
想像力を掻き立てる、生きたタイムマシンのようです。

たとえば『瑠璃の坏』と呼ばれる
深い群青色をしたガラス製の杯。

ワイングラスのような形をした杯ですが、
脚の部分は唐で作られ、上部はペルシャ製というペルシャと唐の合作です。

このような壊れやすそうなものが、千数百年を経ても、
創られた当時のままの美しさを見せてくれるのです。

先ごろ公開されて話題になった『螺鈿紫檀五絃琵琶』

絃と言われる糸が5本ある琵琶は、インドが起源で、
シルクロードを通って、中国から日本へと伝わってきました。

この『螺鈿紫檀五絃琵琶』
正倉院に残っているだけの世界でもたった一つの琵琶なのでそうです。

おもしろいのが、この琵琶に螺鈿で描かれている、
ラクダに乗った人が持っている琵琶は四絃で、
四絃の琵琶はペルシャが起源なのだそうです。

琵琶に施されている模様と、
ルイヴィトンのモノグラムが似ていると話題になりましたが、
ヴィトンのモノグラムは、
世界博覧会で見た日本の家紋が影響していると言われています。

正倉院の宝物には、このような貴族たちが奏でたであろう楽器のほかに、
当時の技術がどれほど素晴らしかったかを思いさらされるような、
食器や織物、家具調度品など、9000件に上る宝物が納められているのです。

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正倉院展の正倉院宝物は、誰がどのようにして集めたのか?

正倉院に納められている宝物は、
756年
聖武天皇を亡くして、悲しみに暮れていたお后の光明皇后が、
聖武天皇の四十九日法要の後、
偉大な天皇がお使いになったものを、すべて東大寺に納め、
廬舎那仏(大仏様)をはじめとする御仏様に捧げようと考え、
愛用の品々を納めたのが始めりです。

聖武天皇の遺品だけでなく、東大寺の大仏開眼の儀式で使われた品など、
奈良時代を代表する宝物も加わり、9000件が保管されています。

現在に残っている古代のものの多くは、地中から発掘された出土品ですが、
正倉院の宝物のように、倉に納められて1000年以上にわたって伝わった例は、
世界でもほとんどないのです。

聖武天皇が天皇であった時代、世の中が非常に不安定でした。
世の中は、病気が流行り、大きな争いも起きて世の中が乱れていました。

そのために聖武天皇は、仏教の力で国の不安を取り除こうと、
奈良に東大寺を建立し、大仏様を作りました。

752年に大仏開眼会の盛大な儀式を執り行いお祝いしましたが、
聖武天皇はその4年後にお亡くなりになりました。

聖武天皇のお后、光明皇后の父親は藤原不比等で、
大化の改新で活躍した中大兄皇子(天智天皇)を助けた藤原鎌足です。

聖武天皇の母親も、藤原不比等の娘で、
光明皇后と聖武天皇は、叔母と甥の間柄なんですね。

聖武天皇の平城京は、シルクロードの終着点と言われ、
聖武天皇が集められた正倉院の宝物の多くは、
シルクロードを通ってやって来ました。

本来のシルクロードは、ローマと長安(今の西安)を結ぶ交易の道で、
地中海・中東・中央アジア・東アジアの、
物や人、文化が行き交う道でした。

日本は大陸とは海を隔てた東の端にあり、
直接シルクロードを通って行き交うことはありませんでしたが、

中国へたどり着いた品物や知識は、
日本の留学生や留学僧によって日本へもたらされました。

正倉院展の正倉院宝物はどのようにして守られてきたのか?

9000件近い正倉院の宝物は、正倉院の建物「正倉」の中で、
北倉・中倉・南倉の3室に分けて納められてきました。

正倉院の倉の中の宝物は、さらに唐櫃という形の杉の箱に入れられていました。

唐櫃には虫喰いを防ぎ、
湿度の急激な変化による宝物へのダメージを少なくする働きがあります。

正倉院の正倉が、高床式の建物だったことも宝物への保存に役立っています。

正倉院の宝庫の扉には、天皇の命令によって封をする勅封がされ、
天皇の許可がなければ開けることが出来ないようにされていました。

宝物の虫干しや風通し、点検なども繰り返し行われ、
宝物は厳重に管理されてきました。

これまで宝庫が火災や争いによる戦火に巻き込まれたり、
宝物が盗難にあうこともありましたが、
人々の熱意や努力の積み重ねによって、
宝物は奇跡的に現在まで守り伝えられてきました。

宝物は今、昭和の時代に建てられたコンクリート造りの、
東宝庫と西宝庫に移され、
最新の科学的手法を取り入れた調査・研究もおこなわれています。

今でもどの扉にも天皇陛下が書かれた親書が鍵に結び付けられ、封じられています。

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まとめ

正倉院展で見ることが出来る正倉院の宝物は、
1200年以上も昔のものばかりなのだが、
そんなに昔の人たちに、複雑で緻密、
さらに高度の技術を持っていたことに驚きです。
今でこそいろいろな機械や道具があって出来ることも、
当時の人は、常に労力を惜しまず時間をかけて作り上げていたのですね!
また、その人たちのセンスの良さには敬服しきれない思いです。