興味津々

石原裕次郎ってどんな人?裕次郎記念館閉館や石原プロ解散危機説は何故?

昭和の銀幕スター 石原裕次郎
この名前を知らない人はいないだろうが
活躍していたころの姿を知る人は少なくなって
いまや伝説の人となった
その石原裕次郎さんとはどんな人だったのか
彼の思い出を飾った 裕次郎記念館が閉館するのは何故なのか
また 
石原裕次郎が作り上げた石原プロモーションの
危機説は本当なのかをまとめました

  

裕次郎記念館の石原裕次郎ってどんな人?

石原 裕次郎さんは 
1934年(昭和9年)12月28日生まれ 1987年(昭和62年)7月17日)52歳の若さで亡くなるまで
日本を代表する俳優・声優・歌手・司会者・モデルなどマルチタレントとして活躍
実業家・ヨットマンとしても活動していた人です

昭和30年代からの 約30年間 往年の銀幕スターと呼ばれ芸能界で活躍されてきました

演じられた役柄は 主に豪快で男気のある人間像が多く
ヨットや高級スポーツカーが良く似合う良家の子弟というイメージですが

父親の潔さんは 山下汽船のサラリーマンであり
旧制中学も出ていない身から叩き上げて関連会社役員にまで出世した人物なのです

その父親の仕事の関係で 兵庫県神戸市須磨区で生まれ
幼いころを北海道小樽市で育ち 中学になって神奈川県逗子市に暮らすようになった
謂わば転勤族の走りだったのです

石原 裕次郎:いしはら ゆうじろう
本名 石原裕次郎
生年月日 1934年12月28日
没年月日 1987年7月17日(満52歳没)
出生地 兵庫県神戸市須磨区
死没地 東京都新宿区信濃町
身長 178 cm
血液型 A型
ニックネーム:タフガイ
職業 俳優、歌手、声優、司会者、モデル、実業家、ヨットマン
活動期間 1956年 – 1987年
活動内容 1956年:『太陽の季節』でデビュー。
配偶者 石原まき子(北原三枝)
著名な家族 父:石原潔
母:石原光子
兄:石原慎太郎

2歳年上の兄 慎太郎さんは 第34回芥川賞を受賞した作家で 国会議員を歴任された元東京都知事

石原 裕次郎さんは 兄の勧めで1956年芸能界入りしました

52歳で亡くなられた石原 裕次郎さんの正式な死因は食道静脈瘤

C型肝炎に感染して肝硬変 肝臓がんとなり 食道の静脈が風船のようになって破裂
出血死したとされています

1981年:4月 『西部警察』のロケ撮影中 背中と胸に激痛が走り慶應義塾大学病院に緊急入院
    当初椎間板ヘルニアと疑われたが その後解離性大動脈瘤と診断される
1984年:肝臓癌が発覚し 倦怠感・腰痛の末 原因不明の発熱にいたる
1986年:5月 高熱が続くため慶應義塾大学病院に入院
    血圧降下剤の副作用による肝内胆管炎と診断
    7月に退院後はハワイで静養
1987年:4月ハワイから帰国直後に慶應義塾大学病院へ検査入院
    5月に一旦退院した(カテーテル治療)ものの 間もなくして再入院
    しかし容態悪化(高熱)ついには幻覚症状(肝性脳症)を発する
    そして7月17日金曜日午後4時26分肝細胞癌のため死去 52歳没

出典:https://ja.wikipedia.org

死んでからもその死因について様々な憶測が飛び交うのは
やはりそれだけ石原裕次郎さんがビッグで今でも注目される人物だからなのだと思います

石原裕次郎さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます

石原裕次郎小樽の裕次郎記念館閉館は何故

小樽市築港にある「石原裕次郎記念館」(浅野謙冶郎館長)が
今年(2017年)8月31日に閉館することになりました

昭和の大スター石原裕次郎さんが亡くなったのが1987年のこと
その4年後の1991年にオープンした「石原裕次郎記念館」

「石原裕次郎記念館」は
昭和の大スター・石原裕次郎さん(1934~1987)のゆかりの品2万点を展示し
1991年7月にオープン
鉄筋コンクリート2階建て約3,600㎡ 総工費28億円

約26年が過ぎた今
なぜ閉館されることになったのでしょうか

石原裕次郎さんは
海運会社に勤めていた父親の転勤で3歳から9歳までの6年間を小樽市で過ごしました

石原さんにとって第2の故郷だということ
石原さんというと「海」「ヨット」というイメージが強く
小樽に海があったことも 記念館がこの場所にできた理由なのだそうです

もちろん記念館は 海の前 小樽港マリーナを見渡せる場所に建っています

記念館には 石原さんが出演した作品や発売されたレコードの数々
出演したテレビドラマで使用した車や機材
テレビドラマ『西部警察』で使用した車両や映画『黒部の太陽』のセット
石原裕次郎が実際に使用していた趣味の車やヨット
アクセサリー・衣装・洋服
さらに
プライベートで着ていた服など
石原さんに関する思い出の品々がたくさん展示されています

昭和の時代を「裕ちゃん」と共に歩んだ人なら きっと懐かしく感じることでしょう

オープン当時は駐車場に観光バスがずらっと並び
年間入場者は126万人を数え、小樽の一大観光名所となっていた。

この記念館には開館時から昨年(2016年)7月までに約1,800万人が訪れ
観光バスも立ち寄る人気スポットでした

しかし
オープンから25年が経過し
建物が風雪・塩害で大きなダメージを受け
外壁などに7箇所の亀裂ができ 市から改善を指摘されていました
また
館内も天井からの水漏れなどでライフラインの老朽化が進んでいたのです

浅野館長は
「裕次郎フアンが高齢化し 近年では 裕次郎を知らない若者が増え
入場者が激減したこともあり
老朽化の改修費用の負担が大きくなったこともあり
赤字になっての倒産など一切あってはならないので
裕次郎さんの想いを傷つけないうちに 惜しまれて閉館することを決めたそうです

記念館に飾られる約2万点の展示品のほとんどは東京都世田谷区にある自宅に戻されます
また
一部を小樽市に寄贈することも検討中です

自宅に戻した展示品は
イベントなどがあれば貸し出しをすることを考えてはいるそうですが
今後は 全国のゆかりの地に出向いて移動展示を行っていきたいと云うことだが
まだ未確定のことが多いということです

もしかすると今後一切見られなくなるかもしれない石原裕次郎さんの記念の数々
昭和の大スターの足跡をもう一度目に焼き付けるためにも
それまでに記念館を訪れてみてはいかがでしょうか

裕次郎が生前に使用していた「ロールス・ロイス」は小樽市に寄贈し
市は小樽市総合博物館で展示する方針を決めているということです

石原裕次郎の石原プロ解散危機説は本当か?

2017年4月27日 デイリー新潮に

「渡哲也さん、一生お恨み申し上げます」 
元幹部が明かす“石原プロは五輪前に解散”

何ともショッキングな記事が掲載されました

この元幹部というのは 石原裕次郎の最後のマネージャーと言われる
石原プロモーション 元常務 仲川幸夫氏(77)

仲川氏が石原プロに入社したのは 1977年10月

ということは 石原プロには40年も勤め上げた方だというのに このような暴露記事を告白するなんて
余程の恨みつらみがあってのことなのでしょう

しかし 石原裕次郎さんの石原プロモーションに入社して40年ですが
入社して10年目に 石原裕次郎さんはお亡くなりになっています

最後のマネージャと言われても その10年間 石原裕次郎さんは病気で何度も入院されていて
それほどお仕事はされていないようでしたが
その最後の時間を 一緒に過ごされていたというのに

「人の悪口は絶対に口にするな 人にしてあげたことはすぐ忘れろ
人にして貰ったことは生涯(一生)忘れるな」

というポリシーを持っていたという石原裕次郎さんが 悲しんでおられることと思います

石原プロモーションでなくとも このご時世 
どんな企業であっても いろいろなことが要因となって経営不振には陥りがちです

渡哲也さん自身も 病を持つ身ながら

大恩ある裕次郎さんの 過去の業績を汚さぬように
また 残された北原まき子さんのことを考えてされていること

その先には 解散という選択肢があるかも知れませんが
今は 若い俳優さんも何人か籍を置かれていて
その人たちの将来を含め 考えておられることと思います

いろんな軋轢があったにせよ 自身が一時期は身を置いた場所

去っていくときに 無用な争い事は避けるべきだと思います

永遠というものなどなく 時の流れや移り変わりには逆らえないもの
始まりがあれば 終わりは必ず訪れます

自らの人生を良しとしたいのであれば 終わり良ければ総て良しじゃないでしょうか

まとめ

虎は死して皮を留め 人は死して名を残す

虎は死んだ後その毛皮が珍重され
偉業を成した人は死んだ後その名を語り継がれる
人は名誉を重んじることが大切だという教訓として言われることわざです

石原裕次郎さんの名前は後世に語り継げられるでしょう
でも そこに係わっていた人間たちの
ちょっとしたボタンのかけ違いで
後々 いろんなことが生じ
本当はどうだったのかがわからなくなることが多いのです

死して残す名前が穢れなきように
真実が伝わることを祈ります

モバイルバージョンを終了