京都のいちひめ神社では、
女人厄除祭が行われます。
いちひめ神社の女人厄除け祭はいつ行われるのか、
いちひめ神社が『市姫』または『市比賣』と記される由来や、
いちひめ神社と市場との繋がりについて、
まとめてみました。
京都のいちひめ神社 女人厄除祭とは?
京都のいちひめ神社『女人厄除祭』は、
京都の冬の風物詩として、
毎年、節分に近い日曜日に、いちひめ神社で行われます。
女人厄除けとは、紫式部の源氏物語にも見られ、
平安時代に盛んになった女人厄除け祈祷ことです。
いちひめ神社女人厄除祭(女人厄除けまつり)は、
昭和六十三年(1988年)から、
和装業界の振興と女性の幸福を祈って、
服飾研究家の市田ひろみさんの監修の元に復元され、
市田ひろみさんご自身が祭主となり行われています。
いちひめ神社の『女人厄除祭』では、着物姿の厄年の女性が、
女性の幸福と家庭円満を祈願し、本殿にて願文を読み上げ、
願いごとを記した矢羽根を、いちひめ神社の神前に奉納し、
宮司様から厄払いを受けた後、
五条大橋の橋の上から鴨川へと、
『福はうち!福はうち!』と言いながら、
豆をまいて邪気を払う女人厄除けの行事です。
今日市比売神社で女人厄除祭が行われ、節分に先立って、着物姿の女性が五条大橋から鴨川に豆をまいた。豆まきには邪気を祓う意味がある。 pic.twitter.com/E63BLjWqB5
— 京都観光・京都ガイドブック (@kyototravelinfo) 2016年1月31日
京都のいちひめ神社が『市姫』と記される由来は?
ご由緒
古事記「天の眞名井宇気比の段」御祭神出生の霊明なる誓約の件により、
女人守護、市場の交易、商売繁昌を神勅とし、
平安時代から皇室、公家万民の崇敬篤く、
御神徳を奉賽したことは史記に多々散見する。
ご鎮座
いちひめ神社のご創建は、
桓武天皇の御代 延暦十四年(795年)に、
京都の左右両市場の守護神として、
当時の左大臣藤原冬嗣公が両市社領内の堀川の西、
七条の北(現在の西本願寺)に坊弐町をかこい、
勅を奉じて勧請された社と伝わります。
天正十九年(1591年)豊臣秀吉の時代に現在の地に移転鎮座されました。
天之真名井(あめのまない)とは、落陽の七名水の一つに数えられ、
いちひめ神社の神宝
天目椀「天之八塩(あめのやしお)」で汲み出された「若水(わかみず)」を、
歴代天皇の産湯に用いられたという伝承が残ります。
現在も名水として茶会、花展・書展等に用いられます。
また、絵馬を掛け、
「天之真名井」のご神水を飲んで手を合わせると、
心よりの願い事が一つだけ叶うと伝えられています。
いちひめ神社の歴史は、日本の市場の歴史とともにあり、
卑弥呼の時代から暮らしに中にあり続けた市場の日本史でもあります。
人の集まるところにはいつも市場がありました。
人々は市場にどんな思いを持ち、
そこではどんな営みがされてきたのでしょうか。
女王卑弥呼以来、
1700年以上の歴史を持つ日本の市場について、
日本最古の市場は『魏志倭人伝』に登場します。
日本最古の市場に関する記述は弥生時代後期に見られます。
時代は卑弥呼の世に遡り、
『魏志倭人伝』では、西暦240年頃の邪馬台国について、
「国々市アリ 有無ヲ交易ス」と、書かれています。
中国では商業活動が認められた特定区域として、
『市』という言葉が使われていました。
当時、邪馬台国でも、
公権力が管理する商業区域が設けられていたと考えられます。
万葉集や日本書紀には大和国の海石榴市、軽市、河内国の餌香市など、
様々な市が登場しています。
海石榴市は「海石榴市の八十の衢」と万葉集に詠われた交通の要衝です。
市の立つ日は多くの人で賑わうほか、
迎賓館なども設けられ、海外との交流拠点でもありました。
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— オッチョコチョイのテレビおばさん (@kabukimono8453) 2019年1月4日
京都のいちひめ神社 市比賣と記される由来は?
唐に続け!都に開設された「東西市」
当時、世界最先端の都市だった唐の長安にならって、
平城京や平安京には都の東西に、
東市と西市という官設の市が設けられていました。
また、市を監督する『市司』という役所もありました。
「延喜式」によると、
平安京では月の前半は東市、後半16日以降は西市が開かれました。
東市では、米・塩・油・絹・土器・牛など、33品目が販売されました。
東西市では人々の日々の生活や、
官庁の運営に必要な物資を調達する場所として、
豊富な物資が揃うだけでなく、
市司によって価格も決められていたのです。
東西市は当時としては卓越した経済的機能を持った市だったと言えます。
『宮市』は憧れの唐物をゲットするチャンスでした。
平安京では常設の市場である東西市のほか、
宮城(内裏)の門前で、
官人や女官、市民に交易をさせる『宮市』が開催されました。
宮市は当時の人々の憧れの『唐物』を手に入れるチャンスで、
「続日本後紀」には、
839年に遣唐使が持ち帰った唐物の一部を、伊勢神宮に奉納し、
残りを建礼門の前に幄(あく)を張って、
内蔵寮の役人や女官が販売したという記述があります。
宮市では雅楽や雑伎(芸能)も催され、
天皇もしばしば遊覧するなど、イベント性が高い市でした。
「宮市そのものは早い時期に消滅しましたが、
南北朝時代に北畠親房が記した『神皇正統記』にも、
『宝物の市』と記されているように、
市場の理想像として人々に記憶されていたようです。
虹が立つと市を立てないといけない?
古来、虹が立ったところには、
市を開かなければならないと考えられていました。
ある家に虹が立つと、
その家の主人は商人を招いて絹や食物を買い取ったり、
宴会を開いたりして人々をもてなしました。
市での売買や交換に、
虹という非日常(穢れ)を浄化する作用があると考えられていたのです。
皇室も例外ではなく、
1089年、白河上皇の居所の六条中院の池に虹が立った時には、
市を立てるべきかどうかを公卿たちが議論しました。
結局『公所』に市を立てた例がないということで、
市を立てることは見送られ、
代わりに上皇がよそに移ることになったということです。
時を超えて市場を守る いちひめ神社『市姫社』
京都の東西市は14世紀初頭まで存続していましたが、
徐々に衰退し、
商業の中心は左京町小路の七条町や三条町、
四条町に移っていきました。
市場本来の機能は失われましたが、
東西市の一角にあった市姫神社は、
宗教的な存在感を維持し続けました。
寺院との一体化や明治時代の神仏分離など、
さまざまな紆余曲折を経て、それは現在も続いています。
1927年の京都中央卸売市場開設時にも、
市姫神社から御祭神が勧請されました。
今も、春には青果中心の春祭りが、
秋冬には生魚中心のお祭りが開催されています。
かつて平安京を見守っていた市姫神社は、
今も京都中央卸売市場を見守っているのです。
いちひめ神社
〒600-8119 京都市下京区河原町五条下ル一筋目西入ル
電話 075-361-2775 FAX 075-361-2776
昨日、後厄のお祓い行ってきた。
やっぱり厄年、怖い(笑)#いちひめ神社
##市比賣神社 pic.twitter.com/bN8HqnnMqk— ゆー (@yu_42ht) 2019年1月6日
あとがき
いちひめ神社は、
ビルに挟まれたようにお祀りされている神社ですが、
歴史は古く、
そのせいなのか不思議なスピリチュアルを感じるパワースポットです。
かわいい『姫みくじ』や、
現代のようなカード社会ならではの『カード塚』といった、
話題性の多い神社で、若い女性に人気のある神社です。
女人厄除けの神社でもあるので、
ぜひ若い女性は、
『女人厄除け祭』に着物を着て参加してほしいですね。