小野篁の地獄通いは六道珍皇寺の井戸から 藤原良相伝説や地蔵菩薩と閻魔大王

京都


小野篁が地獄へ通ったという六道珍皇寺の井戸は、
そこが地獄の入口かと思うと恐ろしい気がしますが、
京都にはあちこちに異界や霊界に纏わるお話があります。

小野篁も歴史上の人物で、
伝説や作り話では片付けられない現象も伝えられています。

論理的に説明のつかない謎の空間が、
京の街には数多く存在するのです。

  

小野篁のお墓と六道珍皇寺がある場所は?

小野篁(おののたかむら)は、
地獄の閻魔様の傍に使える冥官でした。

京都市内北部の堀川北大路を、
少し下がった(南行)所に桜の美しい一角があります。

島津製作所という大きな工場があるだけの殺風景なところですが、
そこだけは一年中緑が茂っていて、
両手を広げれば届くくらいの細い石畳の路地があります。

その奥には、源氏物語の作者として知られる紫式部と、
小野篁(802年~852年)の、二人だけの墓地があります。

〒603-8165 京都府京都市北区紫野西御所田町

大通りから少し入っただけなのに、
そこは不思議なくらいの静寂に包まれる異空間なのです。

京都の町を歩いていると、
小野篁の名前をあちこちで見聞きします。

小野篁は、昼間は朝廷の役人をしていて、
夜になると閻魔庁で地獄の閻魔様に使えていたという人なのです。

閻魔大王と懇意にしていて、
あの世とこの世を自由自在に行き来出来た人物だと伝わっています。

謎の多い貴人、小野篁の風貌は、
六道珍皇寺へ行くと拝むことができます。

六道珍皇寺の閻魔堂に、小野篁の像が安置されています。

実物と寸分違わないと言われるその像は、
180㎝は裕にあると言われる上背のガッシリとした大男で、
それでいて端正な顔立ちが、
秀才で漢詩人だったという風雅さをにじみ出しています。

小野篁は小野妹子の子孫であり、
外交に優れた才気煥発な人で直情径行な性質だったとも言われています。

反骨精神に富んだ言動は時に「野狂」「野宰相」ともいわれました。

孫に能書家で三蹟の一人に数えられる小野道風がいます。

小野篁は、この六道珍皇寺にある井戸から、
閻魔様のいる冥土へと通勤していたというのです。

六道珍皇寺の井戸は小野篁が地獄に通った井戸として、
ミステリースポットとしてもよく知られています。


六道珍皇寺
〒605-0811
京都府京都市東山区小松町 大和大路通四条下る四丁目小松町595
075-561-4129

小野篁の地獄通いと藤原良相蘇りの伝説

小野篁は、
亡くなった母親の霊に会いたい一心で井戸から地獄へ行きました。

そこで餓鬼道に堕ちて苦しんでいたお母さんを救うために、
閻魔大王に直談判したのが地獄の冥官となるきっかけです。

以来、小野篁は地獄とこの世を行き来して閻魔大王に仕えました。

小野篁の謎については、その当時から取り沙汰されていたようで、
多くの不思議な物語が残っています。

たとえば、当時の右大臣・藤原良相(ふじわらよしすけ 813年~867年)が、
病に倒れ他界したときの話があります。

藤原良相は、忽ちのうちに閻魔大王の使者にからめとられて、
閻魔の庁に連れて行かれました。

そこで藤原良相は、閻魔大王の横に並ぶ小野篁の姿を見て、
どうして小野篁がそこにいるのか不思議に思うのです。

小野篁は閻魔大王に、
藤原良相は、良い人なので、私に免じて許してほしいと願い出ます。

閻魔大王は、それは極めて難しいことだが、
篁が言うのであれば許してやろうと判断を下します。

小野篁が「速やかに返してやれ!」と、使者に命じると、
藤原良相はまもなく生き返ったということなのです。

藤原良相は冥土でのこの出来事が忘れられず、
小野篁と朝廷で出会ったときに、
冥土での出来事はどういうことなのかを訊ねました。

すると、
小野篁が遣唐使に任命された時、
一度は船が難破し、再びの出発を藤原常嗣に取り上げられたことから、
乗船を拒否したことで嵯峨天皇の怒りにふれ、
小野篁は、勅命に背いたとして窮地に追いやられました。

本来なら死罪も免れないところを、藤原良相の計らいで、
隠岐の島流罪で済みました。

小野篁はこの時の恩を感じて、
藤原良相を蘇らせたということなのです。

そして小野篁は、
このことは他言無用にと藤原良相に伝えたということです。

閻魔庁の冥官であった小野篁の話は、千年の時を経てもなお、
誰もが知る、京の常識となったのです。

小野篁の地獄通い 地蔵菩薩は閻魔大王の使者か分身か

小野篁の伝説は、葬装地界隈でよく耳にする話ですが、
鳥辺野の六道珍皇寺や蓮台野の千本閻魔堂(引接寺)でも同じことで、
どちらの寺院にも大きな閻魔大王像が安置されていて、
それらの閻魔像はどちらも小野篁が作ったとされています。

また、そのほかにも小野篁が作ったとされる地蔵菩薩が、
京の町のいたるところに安置されていて、
地蔵菩薩は閻魔大王の使者とも分身とも言われています。

毎年、八月二十二日に行われる六地蔵めぐりの、
六体の地蔵像は、木幡(京都府宇治市)の桜の大木から彫り出した、
小野篁の作といわれています。

それらの地蔵像は、京都に入る街道の要所に安置されていますが、
それは後に平清盛によって配置されたものだそうです。

小野篁が生きた時代も混迷の時代でした。

小野篁は地獄で苦しむ衆生を救済する地蔵菩薩に会ったことから、
地蔵信仰を広めることを決意し、六体の地蔵(六地蔵)を彫りました。

六地蔵を深く信仰した後白河法皇は、
王城鎮護と旅人の路上安全のため、京の街道の出入り口六カ所に、
小野篁が彫った地蔵を祀るよう平清盛に命じたと伝えられます。

あとがき

六道さんへは、八月になったらお精霊迎えに生きます。

六道珍皇寺には、ご先祖様をお迎えするために撞く、
六道の鐘があります。

太い綱を引いて鳴らす「迎え鐘」は冥土まで届くというのですが、
朝早くいかないと、長蛇の列で暑さに参ってしまいます。