八百屋お七のあらすじと振袖火事は実話なのか?お七地蔵と蜜厳院とは

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八百屋お七のあらすじをご存知ですか?
歌舞伎や舞踊、浄瑠璃などの演目
『伊達娘恋緋鹿子』で知られていますが、
世にいう振袖火事とともに実話なのでしょうか?
江戸時代に起きた二つの悲恋、
二つの事件について、
そして、
八百屋お七のお七地蔵がある蜜厳院についてご紹介します。

  

八百屋お七のあらすじは?

お七は数え十六の年の暮れに、大火事で焼け出され、
避難した駒込の吉祥寺で出会った寺小姓の吉三郎と恋に落ちます。

しかし、やがて自宅は新しく建て替えられ、
お七は両親に連れられて、泣く泣く家に戻りました。

でも、吉三郎恋しさは募るばかりです。

思い詰めたお七は、
「もう一度、家が火事になれば、また、あのお寺に逃げて吉さんに会える」と、
自宅に火をつけてしまいます。

すぐに近所の人が気づいて、火はボヤで消し止められましたが。。。。

その場にいたお七が白状したため、すぐに捕えられ、
お白州に引き出されます。

この時代、江戸では、
「火つけは十五歳を過ぎていれば火あぶりだが、
十五歳になっていなければ島流し」という決まりがあったとか。

そこでお七の心根の哀れさに加え、被害もボヤだったことから、
なんとか命だけは助けてやりたいと、
奉行が、「お前は十五であったな?」と声を掛けると、
奉行の思いやりを察せられないお七は「いえ、十六でございます。」

お七は江戸市中引き回しのうえ、
鈴ヶ森の刑場で火あぶりに処せられました。

言い伝えによれば、お七の遺骸は蜜厳院に引き取られて、
ねんごろに葬られました。

そして三回忌に彼女が住んでいた本郷小石川村の念仏講の人々が、
お七地蔵を建立しました。

一説には、このお地蔵さまは、もともと鈴ヶ森にあったものが、
一夜にして飛んできたという伝説もあるそうです。

この事件は、当時の江戸の庶民に衝撃を与えました。

文字通り「恋に身を焦がした」お七の霊を慰めようと、
各地からお七地蔵にお参りする人は後を絶ちませんでした。

そして、
蜜厳院のお七地蔵は今もその人気がつながっているのです。

。。。。と、ここまでが、
井原西鶴の『好色五人女』などに描かれたお七の物語のあらすじです。

井原西鶴は、この物語を事件が起きた三年後に出版し、
その後、さまざまな人が伝記や物語りを書き、
歌舞伎や浄瑠璃、落語などでも演じられてきました。

それだけお七の生き様は、
庶民の共感を呼ぶものがあったのでしょう。

ただ、
様々な脚色が加えられて、事件の真相は分かっていません。

東京・文京区の「円乗寺」にも『八百屋お七の墓』があり、
お七が吉三郎と出会ったという文京区・駒込の「吉祥寺」には、
『お七・吉三郎の比翼塚』
(比翼塚は心中した男女を一緒に葬った塚)があります。

ところで吉三郎はどうなったか、気になりますね!

鈴ヶ森でお七が処刑された後、
吉三郎は西運という僧になり、全国を行脚して修行をしました。
また、
多くの人から浄財の寄進を受け、
さまざまな社会事業を行ったと言われています。

そしてある日、
お七が夢枕に立ち、成仏したことを告げたので、
『お七地蔵尊』を建立しました。

いま、この御地蔵様と西運上人の像が目黒区の「大円寺」にあります。

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八百屋お七と振袖火事は実話なのか?

振袖火事というのは、
麻布の質屋の娘・梅乃が寺小姓に一目惚れし、
その小姓が着ていた着物と同じ模様の振袖を作らせて愛用していましたが、
ふとしたことで死んでしまいました。

両親は憐れんで、娘の棺にその振袖を着せてやりました。

当時こういう棺に掛けられた着物とか仏が身につけているカンザシなどは、
たいていの場合、棺が持ち込まれた寺の湯灌場で働く者たちが、
もらっていいことになっていました。

この振袖もそういう男たちの手に渡り、
いいものに思えたので売り飛ばされ、回り回って別の娘の物になりました。

ところがこの娘もこの振袖を愛用していて、
しばらくの後に亡くなったため、
また棺にかけられて寺に持ち込まれることになりました。

寺の湯灌場の男たちもびっくりしましたが、
またそれを売り飛ばし、また別の娘の手に渡りました。

ところが、
その娘もほどなく死んでしまい、
またまた棺に掛けられて寺に運び込まれてきたのです。

今度はさすがに湯灌場の男たちも気味悪がり、
寺の住職に相談。

死んだ娘たちの親も呼び出されてみんなで相談の結果、
この振袖にはなにかあるかも知れないということで、
寺で供養することになりました。

それは明暦3年(1657)1月18日午前十時頃のことでした。

この寺は本郷丸山本妙寺という寺です。

住職が読経しながら火中に振袖を投じます。

ところが、
突然、強い風が吹き、
その振袖は火がついたまま空に舞い上がりました。

そしてその振袖は本堂の屋根に落ち、
屋根に火が燃え移りました。

折しも江戸の町はその前80日も雨が降っていませんでした。

この屋根に燃え移った火は消し止めるまもなく次々と延焼、
湯島から神田明神、駿河台の武家屋敷、八丁堀から霊岸寺、
鉄砲州から石川島と燃え広がり、
日本橋・伝馬町まで焼き尽くしました。

火は翌日には北の丸の大名屋敷を焼いて、
本丸天守閣まで焼失することになりました。

この火事で亡くなった人は10万人以上。

世に言う『明暦の大火』と呼ばれていますが、
この火事の発端が、寺で供養されているあの振袖だったことから、
「振袖火事」の異名が広がりました。

この振袖火事という事件は事実なのです。

一方、
八百屋お七の場合はどういった事件だったのでしょうか。

お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるのですが、
比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によると、
お七の家は天和2年12月28日(1683年1月25日)の大火(天和の大火)で、
焼け出され、
お七は親とともに正仙院に避難しました。

寺での避難生活のなかで、
お七は寺小姓生田庄之介と恋仲になるのです。

やがて店が建て直され、
お七一家は寺を引き払ったのですが、
お七の庄之介への想いは募るばかりでした。

そこでもう一度自宅が燃えれば、
また庄之介がいる寺で暮らすことができると考えたお七は、
庄之介に会いたい一心で自宅に放火してしまいます。

火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったのですが、
お七は放火の罪で捕縛され、
鈴ヶ森刑場で火あぶりに処されたという事件です。。

大棚(おおだな)の娘が、
寺の小姓に一目ぼれして恋に狂うというところが類似していることから、
八百屋お七の事件と振袖火事、
同じ事件かと思う人も多いようですが、

お七の家族が焼け出された天和の大火は1683年で、
後にお七が付け火をしてボヤを出したのは、そのあととなります。

ところが、振袖火事といわれる明暦の大火は1657年のことですから、
四半世紀以上の時差があります。

『火事と喧嘩は江戸の華』という言葉がありますが、
江戸は大火事が多くて、
火消しの働きぶりが華々しかったことと、
江戸っ子は気が早いため派手な喧嘩が多かった ことをいった言葉です。

八百屋お七の霊を慰める蜜厳院・お七地蔵

お七は江戸時代前期、恋人に会いたい一心で自宅に放火し、
火あぶり(火刑)に処せられた悲しい少女です。

東京・大田区の八幡山蜜厳院という真言宗智山派のお寺の境内に、
そんなお七の霊を慰めるために建てられた地蔵菩薩立像、
通称『お七地蔵』があります。

いつのころからかお七が、
好きな相手と縁を結んでくれる、
つまり「恋が叶う」パワースポットとして語られるようになりました。

寺の言い伝えによれば、
蜜厳院は、平安時代の初め、
法印運誉が開創したと伝えられる由緒あるお寺です。

境内には聖徳太子を安置した太子堂があり、
また、玉川八十八ヵ所霊場の第七十六番札所になっています。

お七地蔵は高さが約1.6メートル、
その姿は振袖のようにも見え、
大田区の名所・旧跡のひとつに数えられています。

お七地蔵と並んで立っている庚申供養塔は、
寛文二年(1662年)につくられたもので、庚申塔としては、
大田区内で二番目に古く、大田区の文化財に指定されています。

蜜厳院は、
大田区大森北三丁目5番4号

交通アクセスは、
京急線大森海岸駅下車徒歩約5分のところにあります。

あとがき

十六歳や十七歳という若さゆえに、
一途に人を好きになってしまった少女の悲しい物語です。
三百五十年の時間を経て伝えられる、
物語と史実、そしてその世の中の背景、
興味津々です!