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銀閣寺の歴史の見所と東山文化の原点 国宝東求堂の同仁斎と秋の特別公開

京都の銀閣寺では秋の特別公開が開催されます。

銀閣寺では東山文化の原点といわれる、
足利義政の華麗な美意識を、
燃えるような紅葉とともに見ることが出来ます。

銀閣寺の歴史とともに室町時代へ行ってみませんか?

銀閣寺の歴史と東山文化の原点

足利義政が金閣寺にならって建てた山荘を、義政死後に寺に改めた。正式には慈照寺という。国宝の銀閣と東求堂は東山文化を象徴する建物で、庭も見どころ。世界遺産に登録されている。

銀閣寺の歴史を簡単に解説

銀閣寺の建立は文明14年(1482)室町幕府八代将軍足利義政公によるものです。

義政公は三代将軍義満公の北山殿金閣にならい、
隠栖生活を過ごすため、山荘東山殿を造営しました。

この東山殿が銀閣寺の発祥なのです。

銀閣寺と呼ばれているこの寺は、
臨済宗相国寺派の寺院で、
現在の京都御所 北側にある相国寺の境外塔頭です。

建物の外側に金箔が貼られていることで有名な金閣寺(鹿苑寺)を建てたのは、
室町幕府3代将軍足利義満で、
その義満の法号鹿苑院から鹿苑寺と名付けられました。

同じく相国寺の山外塔頭である鹿苑寺を金閣寺というのに対して、
8代将軍義政が建てた銀閣寺は俗称であり、正しくは東山慈照寺といいます。

義政公は一層を心空殿、二層を潮音閣と命名しました。
慈照寺が銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代からということです

銀閣寺を建てた足利義政とはどんな人

義政は永享8年(1436)足利六代将軍義教を父に、
贈左大臣日野重光の女重子を母として生まれました。

後見として母重子の従弟、烏丸資任(スケトウ)があたり、
養育係に幕府の奉行衆大館氏一族の才女といわれた、御今(オイマ)が選ばれました。

父義教は生来の激しい性格から、彼の権威にそむくものは次々と処罰したので、
世間では「万人畏怖の人」と恐れられ「悪将軍」と呼ばれました。

義教は皇室を崇敬し、綱紀を粛正して強臣を制圧し、反抗的であった管領持氏を滅ぼし、
幕府の権威を伸ばしたのですが、
余りに峻厳に過ぎたため多くの反感を招き、
ついに嘉吉元年(1441)赤松満祐に殺されます。
これは嘉吉の乱といい、当時の風潮であった下克上の現われでもあったのです。

嗣子義勝が8歳で将軍職を嗣いだのですが、嘉吉3年10才で夭逝したため、
次に選ばれたのが後の義政でした。

この時8歳であった義政を補佐したのは管領畠山持国でした。

しかしかつての義満を支えた力量のある人たちと比べると、
人格、力量ともに劣っていました。

やがて管領になった細川勝元もこの時十六歳であり、
山積みする難問題を解決するには余りにも若すぎました。

また義満のように義政にも五山僧たちとの交流があったのですが、
厳しい禅の修業のためというよりは、芸術、文学、といった文化的交流でした。

この頃義政を取り巻く近臣たちはそれぞれ私的な利害関係にはしり、
私腹を肥やすものが増え、
母重子や、養父伊勢貞親も政治に干渉して権勢を振るうようになり、
混乱に陥っていきます。

荘園領主たちは課税のしわよせを農民たちに押しつけたため、
農民の生活は逼迫を極め、やがて土一揆が頻発するようになります。

義政の打ち出したさまざまな政策も効果はあがりませんでした。

当時、
幕府の財政破綻の建て直しと、社会的混乱を正すことは至難のことであったのです。

このような情勢の中で義政は政治から身を引くことを考えました。

義政は康正元年(1455)日野家から16歳の富子を正室に迎えていましたが、
富子には  男子がなかったので、
寛政5年(1464)浄土寺に住して浄土寺殿と呼ばれていた弟の義尋を呼び戻して還俗させ、
義視と名乗らせ将軍の後継者としました。

ところが翌年、富子は男子を産むことになります。
義熙、後の義尚です。

富子はこの義尚を将軍につかせるべく、山名持豊に頼り、
義視を支持する細川勝元と積年の私憤も絡んで武力衝突することになります。

これが花の都、京都を焦土と化した応仁の乱の始まりでした。

この戦いによって相国寺をはじめ多くの寺院が焼失し、
義視が住した浄土寺も焼け落ちてしまったのです。

足利義政の美意識

足利将軍は初代尊氏以来、代々美術品の蒐集に熱心で、
特に義満は対明貿易を積極的に促進し、多くの名品を請来しました。

また日本にもたらされた多くの名画や名器、墨蹟などは、
平安から室町にかけて中国へ渡った禅僧たちによって持ち帰られたもので、
全国の大禅刹に収蔵されていましたが、
これらの多くは歴代の将軍によって献上させられ、将軍家のものとなりました。

これらの名宝が集められて東山殿の宝庫に収蔵され、
義政は同朋衆の一人能阿弥とその子芸阿弥に命じてこの東山御物の選定を試みました。

義政はこうした東山御物の制定と同時に、東山時代に書院造りの建物が成立するに伴い、
書院飾りの法式も能阿弥に命じて作らせ、相阿弥にいたって完成されています。

また能阿弥は茶の湯の作法も発展させ、
村田珠光について学び、珠光を義政に推奨したのです。

九歳にして家督を継ぎ、十五歳にして将軍職を継いだ義政は、
生涯をかけ自らの美意識のすべてを投影し、
東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げました。

銀閣寺は美の求道者ともいえる
義政の精神のドラマを五百年後の現代にも脈々と伝えています。

銀閣寺と大文字

京都の東に連なる山々は東山(ヒガシヤマ)と呼ばれ、
如意が岳(大文字山)を中心になだらかに続いています。

この山なみは古来女性のやさしさにたとえられ、
数々の歌にもうたわれ、人々に親しまれてきました。

なかでも大文字山と呼ばれる如意ヶ岳は、
お盆の8月16日の夜に点火される送り火で知られています。

長享3年近江の陣中で24歳の義尚はこの世を去ります。

義政は悲しみ、その年の新盆を迎えるにあたり、義尚の菩提を弔うため、
横川景三の進言によって、
如意ヶ岳の山面に白布をもって「大」の字を形どるよう近臣芳賀掃部頭に命じます。

横川景三は東求堂から山面を望み、字形を定めて火床を掘らせ、
お盆の16日に松割木に一斉に点火して義尚の精霊を送ったのです。

これが現在毎年8月16日、
京の夜空を焦がして燃える「大文字の送り火」のはじまりです。

銀閣寺はこの大文字山の麓にあります。

東山文化の原点

銀閣寺の門前には哲学者西田幾多郎が思索の場として散策した哲学の道があり、
桜や蛍の名所として人々の散策路になっています。

このあたりは古くから歴史の中に現れたところで、白川の清流が流れており、
流域には早くから人が住みつき、
縄文遺跡や、奈良朝の北白川廃寺跡も発見されています。

またこの一帯には、東に法然院、霊鑑寺、南に黒谷金戒光明寺、真如堂など、
古くから寺院が営まれてきました。

平安時代には、北山と同じく、天皇の御陵、火葬場があり、
菩提を供養する寺院が多くありました。

平安時代の中期に浄土寺が創建され、
この浄土寺跡に東山殿が造営され後に慈照寺となるのです。

足利義政の美意識の結晶といえる慈照寺は、
義政の山荘東山殿にはじまります。

義政没後禅寺となるのですが、
山荘は文化人が集まるサロンとなり東山文化が花開きました。

室町幕府の末期、天文19年(1550)
三好長慶と15代将軍義昭との戦いが慈照寺の周辺で展開され、
堂宇は銀閣と東求堂とを残し悉く焼失しました。

また織田信長が義昭のため二条城を築いた際、
慈照寺庭園の名石九山八海石を引き抜くなど、
室町幕府の衰退と共に慈照寺も荒廃していったのです。

江戸時代の初期慶長20年(1615)宮城丹波守豊盛による大改修がなされ、
今の銀閣寺の現況はこの慶長の改修によるところが大きいのです。

銀閣寺は将軍の山荘として造営されたのですが、
改修に当たって、庭園や建築は、禅寺として、
禅宗風の趣を取り入れ修復がなされたと思われます。

国宝の銀閣(観音殿)は当時から現存する唯一の建物で、
池泉回遊式庭園はどの角度から見ても美しい、
義政の美意識が凝縮された風景を紅葉とともに満喫することが出来ます。

与謝蕪村や池大雅の襖絵も見どころです。

銀閣寺 国宝東求堂の同仁斎とは

同仁斎(どうじんさい)とは

同仁斎(どうじんさい)とは、
慈照寺(銀閣寺)の一角にある東求堂(とうぐどう)の部屋の一つで、
四畳半に付け書院と違い棚を備え、書院造りの初期の代表的な例とされるものです。

本来は持仏(護り本尊として身辺に置いて信仰する仏像)堂で、
南側にある板敷きの仏間に阿弥陀如来を祀り、ここに義政公の像もあります。

天井は本堂もそうでしたが、美しい折上小組格天井でした。

北東側の四畳半は「同仁斎」とよばれる書斎で、
草庵茶室の源流、四畳半の間取りの始まりといわれています。

北面には左側に違い棚、
その右隣の付け書院には書院飾り(当時の文房具?)が再現されています。

付け書院後ろの障子を1尺ほど開けるとそこから見える景色がまるで掛け軸のよう。

四季折々風景がそのまま掛け軸になるなんて、
高価な絵画よりも贅沢です。

また、四畳半という狭さなので天井は重圧感を与えないように工夫された作りで、
「東求堂」とは東から西方の浄土を求めるという意味だとか。

東山殿は西方寺(苔寺)を模して設計されたそうですが、
その庭園の苔も美しいです。

庭園は池泉回遊式庭園の発祥とされ、
どの角度からも観賞できるように設計されていて、
建物との調和もすばらしいです。

特別拝観はまず本堂で、
与謝蕪村、池大雅、富岡鉄斎の襖絵を拝見。

「東求堂」、「弄清亭」(ろうせいてい)と回り、
「弄清亭」では、
平成八年の改築を記念して制作された奥田元宗画伯の襖絵を拝見しましょう。

襖をを何面も使った大胆で色鮮やかな画は圧巻です。

弄清亭は義政公お好みの香座敷で、
公はここで香を聞き、詩を楽しみ、現在も志野流香道の香座敷となっているそうです。

京の町を灰にしたと言われる応仁の乱。

その原因の一端は義政公の隠居志向だったそうで、
乱の後にこんな山荘を造営し、
それが、文化面に多大な功績を残したのかと思うと、多少複雑な思いも・・・・

銀閣寺の坐禅会

銀閣寺坐禅会は、世界文化遺産で体験できる貴重な機会です。

閉門後の静けさの中、般若心経を唱和し、休憩を挟んで2回の坐禅を組みます。

定員30名
開催日は第三月曜

時間は、3月~11月は18時30分から
12月~2月は18時から

料金は無料 定員になり次第締め切り。
事前に往復はがきで申し込みが必要です。

銀閣寺 秋の特別公開2018はいつから

月待山から眺める光景は、侘び寂びを忘れる華麗な秋の風景

秋の特別公開
『東山文化の原点 国宝 東求堂』

2018年10月1日~12月2日

時間は 朝 10時~16時まで

10時 11時 12時 13時30分 14時30分 15時30分から各30分
約20名で行われます。
本堂前に設置して在る申込表に記入し、10分前に本堂前でお待ちください。

慈照寺 事務局
〒606-8402 京都市左京区銀閣寺町2
TEL : 075-771-5725

銀閣寺 特別公開
一般拝観料が500円、これに特別拝観料が1,000円かかります

銀閣寺周辺の紅葉の見頃は、11月中旬から11月下旬
色づき始めるのは11月中旬

銀閣寺を囲む約200本の紅葉や、
周辺を一望できる展望台からの景色は感動ものです。
展望台へはぜひ行ってみてください。

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あとがき

銀閣寺は侘び寂びの中にあって、
名の知れた寺院ですが、金閣寺より華やかさは控えめです。
金閣寺の北山文化と、銀閣寺の東山文化のちがいを、
それぞれじっくりと味わいたいと思います。

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